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昨日、三原議員による八紘一宇発言について雑感を記した。これに限らず、最近は日本を過剰に褒め称える本が溢れかえり、またテレビでも「世界がスゴいと認める日本」をテーマにした番組が多い。自己を客観的に振り返る作業は必要ではあるけれど、その際いいところだけをつまみ食いするような方法は感心しない。
他者に称讃を求め、安らぎを感じる現代日本人。これもまた、アイデンティティの1つだろうか。

今さら、自虐史観一色の時代に戻れとはいわないけれど、それでもあの「日本嫌いの教育現場」に育てられた我が身を振り返ると、ああいう時代の空気の意味はどこにあるのか、とたまに考える時がある。
小学校の頃から、南京事件の写真を授業で見て、原爆の悲惨を様々なメディアで焼き付ける。後者は、確かに現在でも意義のあることだったが、南京や慰安婦など、歴史的にぶれのある事件(念のためいっておくと、私自身はこの問題が「なかった」といっているのではない。事象としては、確かに「あった」はずだ)について、色んな媒体で見せられたことは、子ども心にも結構ショックだった。そして、思うのだ。「日本は、悪いことしかしなかったひどい民族だ。だから、反省しなければならない」と…。私の子どもの頃は、この感情を持つことが当たり前だった。

ところで、外国は基本的には自分たちの行為・発言について、日本人ほどには反省もしないし、自己批判もないという。ところが我が国は、70年間にわたってそれを過剰にやってきたのだから、もうここらで自らを貶めることは止め、外国と対等に渡り合うためにも誇りを持とう、という風潮が主流になりつつある。ここで、敢えて立ち止まって考えたい。
私たちは、「恥」や「穢い」という観念を嫌う。嫌うということは、逆にいうとそれについて客観的に見ることが出来るということでもある。私たちは、戦前を「恥」と考え、「悪い」時代だと規定してきた。一方で、強くて美しい時代であったことも知っているのだが、敢えて暗黒時代だと見ることによって、今のヘーワを噛みしめてきたつもりだ。ただ、我が国の両面を冷静に見ることが出来るのもまた、私たちの特性だ。それを「誇り」とすることはできないのだろうか。
何も、民族の「誇り」は、「強くてカッコイイ自分」だけにあるものでもない。自らの黒い面を見られることも、1つの「誇り」としても良いのではないか。なればこそ、昨今の、「自分好き」だけが横行する「誇り」には、少し違和を覚える。
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