上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2016.02.26 追憶 2.26
本日、2.26事件から80年。
大東亜戦争の前夜に起きたこの動乱、当時を知る人はもうほとんどいないだろうし、戦後生まれの私たちにとってみれば、それは完全に「遠い過去に起きた歴史の1ページ」に過ぎないのだろう。

しかし、それでも考えたい。あの事件を起こさざるを得なかった人々の苦悩と義憤とを思い起こす時、私たちの直面する問題の何と小さなことかと…。
「国を憂えて起」った将校たちが、反乱軍として鎮圧される…あえて先帝陛下に逆賊の烙印を押されても、自分たちの理想とする国の形のために殉じた彼らの情念に、学ばなければならない。今こそ追憶し、継承しなければならない。

事件に散華された御霊に合掌
スポンサーサイト
2016.02.22 竹島の日
仮に、ある人に「竹島問題ってあるけど、そもそも竹島ってそんなに大事なもんなの?」と聞かれたら、私たちの立場の人間ならどのように答えるだろう?
感情論で応酬する人もいるだろうし、歴史的な経緯を懇々と説く人もいるだろう。いずれにしても、基本的には「竹島およびそれに付随する領土問題」については、認識を高め、これを返還するよう政府や韓国に要求する立場であることには変わりない。
もちろん、私もその認識を共有はする。本日は「竹島の日」として、島根県では記念式典を開催している。終戦の靖國神社同様、この日の島根県は各種団体が入り交じり厳戒態勢を張る。
小さな島とはいえ(だからこそ、なのか)、そこは日韓両国の係争地であることはいうを待たない。李承晩ラインの正当性が、旧ソ連の北方領土侵犯と同等に不法なことも指摘されて久しい。
我が国では、自民党政権が「政権を取り戻した暁には、竹島の日を政府主催の式典にする」とうそぶき、果たしてそれは未だに実現されていない(否、実現する気がない、といった方が正しいだろう)。韓国でさえ領土問題に対してこれほど固執しているのに、当の日本はなぜここまで無関心でいられるのだろうか。政府が本来やるべき仕事をしていないのだから、国民レベルで関心が落ちるのも頷けよう(これは拉致問題についても当てはまる)。

政策の一つとっても、ソーシュコク米国を経由しなければろくに機能しないのだから、それも仕方がないのかもしれない。
そして、哀しいことにそうした事実を、大半の国民は気がついている。米国の支配力も落ちてきているのに、まだ日本政府は彼らに依存し、「自分でモノを考えない」ことをよしとすることを恬として恥じないことに。
よって、「竹島の日って何?」という人も少なくないだろうし、冒頭のようなそもそも論が出てきてもやむを得ない。
でも、私たちはずっと言い続けるのだろう。日本政治の限界に気づいていても、声が枯れ果てた時が「終わり」だと思うと、身が動かざるを得ないのだろう。
同志同憂の武運長久を祈る。
インターネット空間で、愛国的な言説(実際はほとんど愛国的ではないのだが)を繰り広げるネット右翼(ネウヨ)という言葉が定着して久しい。一時ほどの盛り上がりはなくなったものの、依然としてヘイスピ的な言辞はなくならないし、いつまで経っても「韓国=反日=在日」に見られる、パブロフの犬のような反応に終始している主張に、どれほどの世間的な広がりが期待できるのだろうか。そこがゆがんだ言説の限界性というものだろうか。

最近は、ネウヨのほか、「ネクザ」という「人種」も出てきているという。ネットでは、全国の任侠団体の情報が毎日錯綜しつつ書き込まれているが、ネットでやくざ通のような書き込みばかりしている人々のことを、ネクザと呼ぶらしい。その手の書き込みを見ていると、確かにやくざ世界とさほど縁が深そうに感じられない内容の書き込みは結構目に付く。また情報が一人歩きしたためか、特定の組織の人事情報が色んなネット空間に拡散されていたりと、ネット民ならではのリテラシーの無さが見事に反映されている。書き込まれた当の本人たちは、どのように感じてるのだろう?と勘ぐりたくもなる。

いずれにせよ、ネウヨもネクザも、日頃の鬱屈した感情をネットに書き込んで溜飲を下げ(それで下がるのが信じがたいのだが)、実社会では180度違った表情で生活し、実際の現場を体験してみようとは決してしないという点では同根である(確かに、やくざの世界はさすがに足を踏み入れるには躊躇するが…)。
しかし、五感で世界を感じ、小田実的にいえば「なんでもみてやろう」精神に勝るものはないだろう。社会を面白くするのは、結局そういう良い意味での「野次馬根性」にあるとはいえないだろうか。
今日たまたま見たニュースによると、選挙権年齢が18歳以上となることにより、高校での新科目「公共」が必修化されるという。これに伴い、これまで内容が共通する部分もある「現代社会」が廃止されるようだ。現在の公民科では「現代社会」または「倫理」「政治・経済」が必修だが、文科省によれば「倫理」「政治・経済」も選択科目となる可能性があるという。

18歳に選挙権を引き下げたところで、喜ぶのは組織票で動く連中だけなのだろうけれど、それにしても18歳にして政治に関わらざるを得ないからといって、新たに「公共」なる科目を導入したところで、政治に自覚的な「成人」が生まれようはずもない。元々、家族が創価や日共ならばともかく、大半の家庭は政治に無関心か、世情に流される世帯だろうに。そこへきて、ハチャメチャな所業ばかりが目に付く政府である。政府に都合の良い内容の単元になってしまわないか、どうにも心許ない。

歴代政権によってコロコロ変わる政府見解や政策を学ばされるよりも、あえてここは「倫理」を選択科目ではなく必修にせよといいたい。中途半端な政治史を一年かけて学ぶより、「倫理」での先哲・賢人の言葉に歴史や哲学や生き方の神髄が残されているだろう。それらの言葉によってこそ、これからの時代を考え抜き、生きていく力を身につける若者が現れるのではないのか。
謹啓
寒冷の候、貴団体に於かれましては、益々御活躍のことと拝察し大慶に存じます。平素は格別の御高配を賜り、厚く御礼申し上げます。 扨、来る二月十一日『紀元節』に、恒例の奉祝合同参拝を執り行います。 各団体の皆様の御理解と御協力を賜れば幸いで御座います。
謹白



[日時]平成二十八年二月十一日(木曜日) 午前九時までに集合、九時半参拝行動開始。

[集合場所]橿原神宮正面駐車場

[服装]正装(隊服可) 国旗、各団体の社旗・団体旗を持参の事。

以上

主催:「紀元節」復興関西行動
2016.02.11 奉祝 紀元節

本年も無事に紀元節を迎えられたことに感謝し、さらなる国家安寧を国民一同謹んで御祈念申し上げます。

皇紀二六七六年如月十一日
大東亜青年倶楽部
2016.02.10 老害考
「保守」文筆家の曾野綾子氏が、『週刊ポスト』のインタビューで「老人は適当な時節に死ぬべき」と発言し、物議をかもしている。もともと、色々と議論を呼ぶ発言の多い方だが、今回の発言では「ならば、ご自身がまず手本に」など、発言がブーメランになっているようだ。曾野氏も84歳。発言したからには自分が老害だという自覚があるんだろーな、という「若年世代」の怨嗟の声がその反応からもみてとれる。
しかし、この発言はブーメラン的な反応で応酬するのではなく、彼女がどういう意図で発言したか、をもう少し考えた方がよいだろう。

私は、日頃の曾野氏の主張に頷ける点は少ないけれども、この発言についてはちょっとだけ一理あるのではないかと思う。
話は変わるが、今から20年近く前に、『朝日新聞』の川柳欄で「年寄りは 死んで下さい 国のため」という句が掲載され、ちよっとした話題を呼んだ。この句の背景には、現代にまで続く医療費・介護保険料の高負担があるわけだが、それらの問題について故渡辺美智雄氏が「世代交代が円滑になるには、老人世代が早く退場するべき」という意味合いの発言を皮肉って投稿された。
翻って、曾野氏の発言も、20年前の問題から世間が何一つ変わっておらず(むしろ、酷くなっている)、「老人世代は確かに日本の国力を高める原動力として必死に尽くされた。しかし、現役世代が少なくなる一方で、老人ばかりが増えていくのは社会が疲弊する構造になっている。平均年齢が高くなってはいるが、やはり老人世代はある程度の年齢で寿命を迎えるのがふさわしいし、それでこそ世代交代もスムースに進む」という意識のもと発言されたのだろうと思う。
要は言い方に問題があったということなのだろうが(笑)、しかし超高齢化社会が定着した現在、前述のような理想的な世代交代がこれから実現可能か、といえば全くそうではなく、今後もこの手の発言は増えこそすれ現実を伴わないままに鬱屈した世代間論争が続くところに曾野発言の限界があるように思う。

そして、現役世代である私たちが、この問題を受けて「理想的な老い方・死に方」「次代に日本をいかに引き継ぐか」をきちんと考えなければならない。ブーメラン的な反応で溜飲をさげているだけでは、いずれ私たちが老いたときに、同じような罵声を浴びるだけだろう。
今年に入り、案の定公私ともに余裕がなくなっている。困ったものである。世にブログなどすなる御方は多けれど、これを毎日更新されている方々の誠意には、本当に頭が下がる。焦ることは何もないのだろうが、当ブログも、どうにか埋没しない程度には更新をしていかないといけない。
さて、標題の問題だが、ここ数年「反日」「親日」探しに余念がない世情が続いている。色んな感情を持つ人間がいるのは当然として、どちらも「排除」の理屈が入り込んでのレッテル貼りには辟易する昨今だ。 テレビで、「日本は世界で素晴らしい国だ!」「こんなにスゴイ日本人!」のような自己偏愛的番組が増えて久しい。日本人が誇りを持つことは何も悪いことではないけれど、こういう番組を見ていて、「ほんまかいな?」と思うことがあまりにも多い。
世界の色んなところで活躍する同胞を立派だとは思う。しかしそれは、国内で働いている私たちの疲弊した自分自身の姿から目を反らし、外国での活躍ぶりを見て溜飲を下げているだけではないのか。

今日は節分だ。「鬼は外、福は内」と豆を投げて、無病息災を願う。日本人なら誰しもやったことのある行事だ。時期は外れるが、鬼が登場する行事に秋田の「なまはげ」がある。無病息災はもちろん、教育的機能も多分に含んでいたこの行事も、最近は「保護者のクレーム」とやらで縮小傾向にあるらしい。また、「除夜の鐘」も同様で、「騒音」だとのクレームがあるのだという。

何か、おかしくないか。

もちろん、祭りや民俗行事は、時代とともに移り変わるものだし、行事の変容といえばそれまでかもしれない。しかし、「権利」が増えすぎた昨今、それらの行事も例外なくそうした次元の中で総括されるようになった。私たち自身がそれを選択したのだし、そこにケチをつけるつもりはない。けれども、「権利」が全てに優先され、「合理化」の極みに達した現代社会で、本来共同体の維持・緩和の意味を持っていた行事ごとにさえそうした理屈を導入し、そこに何の違和感も感じず歓迎してしまう現代日本人は、果たして「郷土を大切にしよう!」と胸を張って言えるだろうか。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。