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本日は、教育勅語御渙発日だ。色々と批判もあるのだろうが、教育勅語が我が国近代教育の基盤となっていた事実は否定しようがない。かつてのこどもは、これを全文暗唱していたという。信じられないという向きもあるかもしれないが、お経などと同じく毎日毎日唱えると自然と身につくものだ。特に、日本独特の七五調や和漢混交の美文は、言葉の難しさもあるけれど、その響きが何とも心地よい。「グンコクシュギテキ」だとか「テンノウスウハイ」だとか、感情的な非難は措いて、一つくらい美文をすらすら唱えられるのは、純粋に格好いいと思うのだが、如何。
そして、思う。古典で有名な岩波文庫には、どういうわけか教育勅語も明治憲法も入っていない。大半の人々から見れば、これらは「古典」に属するものだろう。
日本国憲法が今なお出版されているのであれば、近代日本を形成した教育勅語や明治憲法も、目に触れる機会があって良いのではないか。
最後に、教育勅語の全文を掲載する。

「教育ニ関スル勅語」
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ
ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克
ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セル
ハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實
ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦
相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及
ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器
ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲
ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉
シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キ
ハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ
爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫
臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬
ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ
拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
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従業員を低賃金・長時間勤務などで酷使する、いわゆる「ブラック企業」という言葉が社会に定着して久しい。本当は、こんな言葉はない方がよいのだが、私たちは仕事に就く以上、そこに「ブラック」的な要素は大なり小なりつきまとう。
その「ブラック」を、「ホワイト」まではいかなくとも、どこまで「グレー」に薄められるか、はひとえに働く個人の力量にかかっているのだろう。

このブログで、日々の労働こそ最大の愛国運動だと、何回か書いてきた。どのような仕事でも、国家・社会に無関係な内容のものはない。日々社会に貢献することこそ、「日本丸」という大船を動かす原動力だと信ずるからだ。
しかし、仕事ではない、政治運動としての「愛国運動」は、その成果が目に見えることは少ない。時に国家そのものに対峙することさえあるのだから、蟻が象に立ち向かうようなものだろう。にもかかわらず、いつもどこかでそうした趣旨の運動は行われている。しかも、本人たちはやり甲斐も感じている。むろん、無償だ(笑)。政治的愛国運動は「ブラック」そのものではないか。

報われることがほとんどない、という意味においてのブラックな運動に、なぜこだわり、継続することができるのだろう。答えは簡単だ。私たちの理想とする日の丸が前にあるからだ。そして運動の当事者は、赤心に奮励する。ブラックであっても、熱血の促す戮力は民族革新の大義に十分なのである。
ある日の午後、テレビで「ワイドスクランブル」が放映されていたので、何気なしに見ていると、「日本の伝統に魅せられた外国人」という特集が組まれていた。
よくある「日本ってスゴイ」系の、薄っぺらいコーナーかなぁと思っていたら、意外とちゃんとした内容だった。出てきたのは三人。一人はアフリカ生まれの方で、日本の新内に惹かれて来日、これまでのキャリアをすべて捨てて新内の師匠に弟子入りされたという。他にも、アメリカ出身の甲冑師、オーストラリア出身で庭師の修行をされている方など、しっかり頑張っておられるなぁと感心した。

でも、見ていて感じたのは、私たちは日頃伝統だとか文化だとか「うつくしーくに」だとか声高に言っているが、本当にちゃんと護れているのか?ということだった。むしろ、外国生まれであっても日本文化に感化され、来日・帰化までされている人々の方がよほど伝統護持の覚悟があるのではないか。
生まれ育ちが異なる中で日本に魅せられたというのは、皇化に浴するところ大であるのは言うまでもないが、私たち「日本人」がそれに安住し、「外国からでも護ってくれる人がいるから、まだ大丈夫だ!」と要らぬ甘えがないか。ではもし、彼らに見向きもされなかったなら、新内も甲冑も作庭技術も、今すぐではないにせよ、いずれ死滅しても仕方がなく、それはそれで一つの「文化」のあり方として割り切ってしまうのだろうか。現代日本人は、おそらくそうした考え方なのだろうけど、多分その選択は誤りだろう。

むろん、文化的なるものは、細々と続くものかもしれない。けれども、それを誰かが自発的にでもそれを継承し、引き受ける覚悟がない限り、その貴重な民族的財産は軽々と遺棄される運命にある。歴史に時間的な断絶はない。しかし、日本の場合、明治維新前後、そして大東亜戦前と戦後で、大きな文化的変容があった。戦後は特に顕著だろう。
その細々とした灯火さえも、戦後空間を生きる私たちはヘーキで消そうとする。彼ら外国人の姿を見て、逆照射された私たちの姿に、暗澹たる気持ちになった。
2015.10.20 奉祝 地久節
皇后陛下におかれましては めでたく半寿をお迎えになりましたこと 国民一同心より御奉祝申し上げます

二六七五年神無月二十日
大東亜青年倶楽部
2015.10.08 意識高い系
最近、「意識高い系」という言葉が流行っている。かいつまんで説明すると、やたら正義感が強く、社会に対する関心も高く、何事にも積極的なのだが、そのエネルギーの向かい方がどうにも少し痛い…という欠点を持つ人々のことをいうらしい。プラス要素が高いにもかかわらず、なぜか非生産的(しかも本人は気がついていない)という、ある意味で悲劇的な人種だということらしいが、昨今世を賑わわせているSEALDSの面々や、元々社会的・政治的運動に携わっている人々も、そんな風に見られているのだろうか。
確かに、私たちも含め、民間政治勢力が社会にどれだけコミットできているのか、といえば疑問符は多い。では、全く世情に無関心で、何も声も上げず、状況に流され続けることが「善」とされる生き方なのだろうか。おそらく、大多数の人々にとってはそうなのだろう。実際、デモに参加した学生に対して「そういうことをしたら就職できなくなる」といった声が大なり小なりまかり通るのは、社会に対する行動が「特殊」で、極力何もせず考えもせず生きることが「普通」だとする「日本社会」の常識に沿った意見ではある。でも、街宣やデモをする人々も、たいていは仕事を持ちながらやっている。そして、何らかの行動により就職(実際は就社)できなくなっても、それはそれで別に良いと思うのだが、如何。
ともかく、「意識高い系」は敬遠の対象であるらしい。しかし、そういう括りで見なされる人は、自分の生き方への肯定感が高い人ともいえる。一生懸命に生きることが「意識高い」なんて高所から見下ろす風潮こそ、むしろ問題ではないのか。

と、「意識高く」書いてみました(笑)。

昨日、定例の演説会に参加。ここで話をさせていただいてから、もう3年が経った。その間、不条理を訴え社会が少しでも良くなったのか、と問われれば甚だ心許ない。でも、サイレントマジョリティーにだけはなるまいと、同志同憂思い思いに話をしてきた。結果よりも、話し続けることが大切だということだろうか。
そんな中、昨日の例会ではなんと高校生が参加したそうだ。時間の都合で彼の演説を聞くことはかなわなかったが、こういう現場に駆けつけるには、大変な勇気がいると思う。その行動力には拍手を送りたい。選挙権も18歳に引き下げられようとしている昨今、デモを行う高校生も出てきているという。権力側からすれば、新たな票田に映るのだろうけれど、若い力はどこへ向かうか分からないところにあるのが何よりも魅力だろう。精一杯色んな主張をして欲しい。
それにしても、こういう若い子が民族派の演説会に来てくれるということは、私たちに何をもたらすのだろう。地道な活動の成果と見ることもできるが、むしろ私たちは前途ある若人を温かく見守らなければならない。固定化された思想の枠に閉じ込めようとしたり、また自らそんな枠を設けようとしてもいけない。色んな人に出会い、色んな話をし、色んな刺激をもっと受けて欲しい。
梅田の演説会は当面は継続する。いつでも、来たい時に来れば良いよ。
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