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米国がマンハッタン計画に利用された土地を、国立公園にしようと計画しているという。マンハッタン計画とは、原爆製造のために米国が総力を結集した事業であり、その結果は日本への投下・大虐殺という形でもたらされた。
米国としては、「賞賛ではなく教育のための国立公園化」だとしているそうだが、何のことはない。賞賛ではなく教育的利用だといくら強調しても、そこには必ず原爆投下を正当化しようとする意思が根底にあるのは明白だ。結果的に、原爆の投下が日本を降参せしめ、ヘーワでミンシュシュギ的な戦後世界秩序が形成される最大の契機となったという理屈は、米国だけでなく大方の史観として定着しているし、罰の悪いことに、当の日本ですらその論調に流されてしまっている。
米国にとっては、安保法案も無事(?)に成立できそうだし、もう絶対に日本は米国のくびきから逃げ出すことなどできないと安心したのだろう。ここへきての悪のり、米国が日本をどのように見ているか、この一件が象徴しているでないか。

原爆投下・大虐殺を、日本人は絶対に忘れてはならない。それと同時に、日米の対等な関係というなら、私たちの中にある米国に対する奴隷根性を払拭しなければならない。
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近年、学生を中心にアルハラの被害が目立っているという。かつてのように「イッキコール」などが鳴りを潜めた反面、「替え歌」や「連帯責任」などで飲まざるを得ない状況に追い込んでいくという、心理的圧迫感のもとで飲まされ、死亡事故に至っているという。
若気の至りで、調子に乗って、というのは若者ならではの元気が良い証拠とみる向きもあるだろうが、若者が皆酒に強いわけではない。飲めない子にとっては、コンパや友人同士で集まった際、一杯くらい…というのは彼らなりの最大限の気遣いの表れであり、進んで飲みたいわけではないだろう。この際「飲めないなら初めから飲めないといえばいい」というのは、飲める者の傲慢であろう。むしろ、飲める人間の方こそ、飲めない者にしかとその旨気遣うべきである。
若者はやはりそうした点は未熟だ。しかし、彼らがそういう行動に出るというのは、やはり大人であるはずの私たちが、いかに日ごろ自堕落な酒を飲んでいるかということだろう。自己批判しなければならない。酒とともに(笑)。
米国主導による安保法案が、議論の深化もないまま採決された。首相自ら米国に「夏までに成立させる」と約束した以上、是が非でも、それがたとえ違憲状態であっても、ソーシュコクのためなら成立は絶対条件だったわけだ。米国植民地似非日本としては、これまでにない仕事ができたのではないだろうか。
国民の多くは反対なのは周知のところだ。「民主主義を守れ」「戦争をさせるな」という。確かにその理屈も分からなくなはいが、では果たして戦後日本に民主主義はあったのだろうか。守るべき民主主義とは、そもそも一体何か。戦争させるな、といいながら、毎日民間人がどこかで自殺し、拉致もされている状態は、ヘーワなんだろうか。

私個人は、もちろん今般の採決には反対だ。ただし、外国の脅威を謳うのであれば、何よりもまず米国の楔は段階的に抜いていかなければならない。我が国がいずれ完全な独立を果たすまでは、米国の核の傘に入るのは致し方ないというのは、生活保護の不正受給にみられる「本当は自分で解決出来る力があるのに、敢えてそれをせず力の大きいモノに守ってもらい続ける」のと同じ発想で、戦後敗北主義を象徴している。
今般の安保法案が、いずれ我が国の自立を考えた時必要な手続きだったと見る向きもあるかもしれない。しかし、名実ともに違憲状態と指摘された中での採決だった。これをどう考えるのか。自衛隊も違憲とされ続けている現在、さらに違憲な法案が提出・可決されてしまうと、もうそこには憲法の縛りはなし崩し的に解けてゆく。自民党は、自主憲法制定を党是としているが、それに即するならば、まずもって改憲から手をつけるべきではなかったのか。要は、手順が全くずれているのだ。

そして、戦後空間の歪みの最たるものとして、安保賛成・反対のどちらも米国製民主主義のくびきから一点も動いていないところだ。賛成派は、米国のための安保と言い張って恬と恥じない。反対を叫ぶ国民も憲法と民主主義を守れという。しかしそれは紛れもなく米国製だ。結局、戦後体制というコップの中の話に過ぎない。その際、右翼・左翼はこの問題に必要以上にコミットすべきではないだろう。体制覆滅勢力としての右翼・左翼は、こうした戯論を超えた世界観を提示し、似非日本を打倒しなければならない。

昨日も、地元の脱原発国民行動に参加した。終了間際ではあったが、何とか間に合った。
それにしても、どこの運動に出かけても国民の意識は相変わらず…何とかならんもんかねぇ、とたまに思う。
しかし、そんなときガンジーのこの言葉を想起する。
「あなたのすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」
シラけて、無為に日々を漫然と過ごし、あれよあれよという間に世間に押し流されることを拒んでいるのだろうか。強烈に自覚しているわけではないが、やはりそうなのかもしれない。
2015.07.14 漫述
タイトルに挙げた「漫述」とは、幕末の尊皇家、佐久間象山の作になる詩である。ヤワな自分を奮い立たせるために、最近吟じている。
象山は、生前傲慢な性格だったといわれ、その評価は死後高くは評価されなかったようだ。しかし、その思想は幕末の志士に受け継がれたことを思い合わせると、象山のそうした性格は「後に続く」を確信したゆえのものだったのかもしれない。

「漫述」は、「他人がどのように評価しようと、天は本来的に私のことを知っている。だから他人から認めてもらおうなどとは思わない」といった内容の詩だ。
どのような世情になろうと、私は私一人でいる。天は、見放しにはならないから……。

読みようによっては、相当に自分に自信をもっていなければ書け得ない内容だ。象山は、それを書き得た数少ない人物だったがゆえに、後代の志士に敬慕されたのだろう。さて、現代の私たちに、こう言い切れる自信を備えているだろうか。

「漫述」
謗る者は汝の謗るに任す
嗤う者は汝の嗤うに任せん
天公本我を知る
他人の知るを覓めず

昨日は毎月恒例の演説会。
話題のほとんどは、堺市を中心に起こっている、仁徳御陵世界遺産推進問題と、皇都伊勢のサミット開催について。

安易な観光化によって、カネは手っ取り早く入るだろうけれど、その引き換えに国史をないがしろにしていないか、今一度足下を見定めなければならない。
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