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自民党の「文化芸術懇話会」で、「ある参加者」から「沖縄の二紙をつぶせば良い」「メディアにとって広告は死活問題だから、広告を止めて廃刊に」などと、物騒な発言が飛び出した。自民党は、懇話会の責任者を更迭したり、所属議員のメディア露出を自制させたりしているそうだが、ことの本質はそんなところにはないだろう。ともかく、大変お高い文化芸術度ではないか(笑)。

それにしても思うのだが、では本当にこれら政権側にとって「問題のある」メディアを叩き、廃刊や倒産に追い込んだとして、問題は解決するのだろうか。答えは、否だ。
これは、権力とやくざの関係に近い(こう書くと、高学歴のメディアの方々はお怒りになるだろうが)。
権力とやくざ、権力とメディア、どちらもその実態は自らの都合の良いように利用し合う共犯関係において成立してきたことは、今さら指摘するまでもないだろう。ただ、その一方が度を越した時、もう片方は暴発する。ちょうど今、権力がやくざを執拗に社会から締め出そうとしているのと同じく、メディアと権力も、朝日の誤報問題に代表されるように(ただし一連の誤報問題は、朝日に限ったことではなくほぼ全てに当てはまっていて、実態は自民党主導による特定メディアバッシングといってよい)、権力側にとって都合の悪いメディアは、同じように社会共通の敵とされうる構図になってしまった。
ただ、これらを徹底的に非難してつぶしたとしても、やはり本質的な解決にはならないのは自明だろう。つまり、「なぜやくざが社会にいるのか。彼らが登場する根本的な原因は何か」「なぜメディアは社会に必要なのか。私たちが情報を必要とするそもそもの理由は何か」を明らかにしない限り、彼らは形を変えて、第二・第三のやくざやメディアはいくらでも出てくるのだ。現に、やくざの社会ではそうなりつつあるとも聞く。
自民党は、今でこそ我が世の春と謳歌しているからこそ、何を言っても許されると錯覚しているのかもしれない。ただ、自らに問題のある勢力を抹殺したと思い込んだ時こそ、結果的に自らの首を絞めることを自覚すべきではないか。民衆が地下に潜った時ほど、怖いものはない。
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2015.06.25 関電株主総会
本日は、関電株主総会。筆頭株主の大阪市をはじめ、心ある国民が総会でさまざまな問題提起を行っていることだろう。
その問題提起の中身、いうまでもなく原発再稼働のことだ。

今、原発・基地・拉致・憲法・領土を巡って、国が揺れている。そして、もう左右それぞれが意見をぶつけ合い、罵倒し合うという状況でもなくなってきている。
これらの問題を、政府自民党に代表される戦後政治空間全体が無視し続けてきた結果、今日の政治的臨界点を招いていることは、もう多くの国民が気づいているところだ。
上にあげた諸問題も、大原則は「私たち民族の悠久の歴史をいかに護っていくか」に尽きる。これらの問題を解決するために、これまでも一部の意志のある国民によって、独自に活動されてきた。しかし、結局のところ、政府の理屈に回収されてきたのが実情だったのではないか。政府の理屈とは何か、「自分の椅子のためには国民を蔑ろにしても構わない」「戦後ソーシュコクとなった米国様には、二度と逆らわない」、この二点だろう。そして、どの問題をとっても、米国の存在を抜きにしては考えられなくなった。否、私たち自身が考えることを停止してきたのだ。
現在、以上の問題も含め、我が国を取り巻く諸相が過渡期になっていることは周知の通りだ。これらの問題を、一致結束して取り組もうとしない以上、三島由紀夫の遺言通りの、否、それ以下の国になってしまう。ではどの面で一致結束できるのか。私たちの中に蠢いている、「米国的なるもの」「欧米中心・物質文明中心主義」からの脱却に他ならない。

関電の総会では、経営陣は相も変わらず原発再稼働一辺倒だろう。こんな論法をずっと続けさせて良いはずがない。皇土を護り、子孫に山河を残すためにも、まずは脱原発を訴え続けよう。
2015.06.23 沖縄慰霊日
本日、沖縄慰霊の日。数多の同胞に心より合掌十念を捧げ、二度と悲劇を繰り返してはならない決意を新たにしたい。
また、皇土を焼き尽くした米国に対し、日本民族としての怒りの念を忘れてはならない。

大東亜青年倶楽部
2015.06.12 負の遺産
最近、個人的にだが、脱原発運動に参加している。東京発の「右から考える脱原発運動」にも賛意を示しつつ、しかし頻繁に関東にも行けない。そこで地元の活動にて、たまにではあるが演説などで参加している。
もちろん、地元のそれはいわゆる左巻だ(笑)。主宰の方々も前面には出していないが、色合いはどうしてもそうなるのだろう。そんな中で、私一人「皇土死守」「独立自尊」を訴え、電力会社の金権体質を批判している。こういう主張はなかなか彼らの中からは生まれないためか、案外評判が良い(笑)。

さて、こんなどうでもいい自慢はさておき。
最近この問題を考える中で、少しモヤモヤしていることがある。
東日本大震災で甚大な被害を受けた福島県は、原発によって栄えてきた。これは米軍基地にもいえることだが、政府からの莫大な補助金によって政治が営まれてきた。しかし、両者ともそうした体質は終焉を告げつつある。
福島県浪江町には、町の大通りに「原子力 明るい未来のエネルギー」という標語が掲げられている。今般の事故により、原発村は壊滅したが、この標語を作成した人びとからは、「悲惨な歴史の教訓として、遺してほしい」という声が上がっているという。
なるほどな…と思っていると、あることが頭をもたげてきた。たとえば、広島の原爆ドームや長崎の浦上天主堂に代表される、戦争の遺産なども、「悲惨な歴史の教訓」としてあえて遺されてきた。この記憶を、原爆を落とした主体、つまり米国にこそ考えて頂かなければならない。福島の標語についても、その惨禍をもたらしたのは東電・政府であった。彼らに大いに反省を促すためにも、遺すべきなのかもしれない。
では、沖縄をはじめ全国に展開している米軍基地群はどうか。もし仮に、これらが国外への撤退が実現したとして、国内から「戦後日本の象徴としてこれらを遺すべきだ」という意見が出るかもしれない。日本は、負の遺産だらけなのか。
哀しい歴史を持たない国はないとはいえ、これまで日本が「善」としてきた価値観、つまり原発や基地なども、一転して「悪」の遺物となる(現に、原発はそうなった)。では、何故そのようになったのかを私たちは冷静に立ち止まって考えてきただろうか。

時代によって変転する善悪の価値観を点検せず、全てを「善」であるとしてきたツケが回ってきたということだろう。憲法もそうなりつつある。私は護憲ではないが、時代と合わなくなってきたものを「悪」と規定するにせよ、そこには十分な点検が要求されよう。「何となく、悪そう(良さそう)」という空気感だけで流し、流される世の中は、やはり気持ち悪い。

毎月第一日曜に、梅田で行われる「社会の不条理を糾す会」。
演台も暑くなってまいりましたが、毎月欠かさず有志が発言致します。

YouTubeで「社会の不条理 関西」と検索いただくと、大抵の動画がアップされています。是非ご覧下さい!
文科省が国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小への転換の素案を提示したという。人文学部系の学問分野は、これからますます図書・研究費が削減されることだろう。とんでもない筋違いな方針だ。
ここ10年ほど、日本の学問傾向が実学偏重になってきていたが、最近になりこの傾向が極度に進行している。日本には、もう人文学は必要ないのだろうか。

そもそも、人文学は医師薬理工系のような、研究成果が日進月歩で更新されるような、スピードが要求される分野ではない。
たとえば、歴史学だと鎌倉幕府の成立は、長らく西暦1192年が定説とされてきたが、近年になりようやく諸説現れるようになってきた。また、国文学の世界だと、『平家物語』の成立を巡っても、議論百出の状況が続いていて、結論は今なお出ていない。人文学は、そのほとんどの分野で、成果が出るのに時間がかかるものなのだ。否、その積み重ねを丹念に辿り直すことに意義がある。
しかも、そうした結果の多くは、「カネ」にはならない。政府・文科省の今般の提示とやらは、すぐに「カネ」に直結しない人文学に対するイヤキチに近いもののように思う。
確かに、以上のようなことを明らかにしたところで、実利には反映しずらいし、私たちの生活が物質的に豊かになるものでもない。

しかし、こうした人文学の研究にこそ、実は私たち日本民族の精神・文化の維持向上に計り知れない影響を及ぼすのである。そしてそれは、明日にでもすぐに役に立つというものではなく、民族の遺伝子として永く継承していかなくてはならないものでもある。毎日上書きされるような、即物的な研究分野とは、およそ厚みも深さにも雲泥の差があるといっても過言ではない。現在青息吐息の人文学に携わる人びとも、どこかで諦めていないか。自らが携わる分野が、いかに日本人の文化・歴史に大きく寄与しているかということを。
国語を学び、歴史を尊び、文化を護持し、先人を愛する。これこそ、国の堅めというのではないのか。

当ブログにあえて記事にしたのは、他にも理由がある。それについては、また日を改めて記したい。
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