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2015.02.26 2.26
79年前の今日、2.26事件が発生した。事件の顛末は色んな媒体で見聞できるが、まずはこの事件で散華された全ての御霊に哀悼の意を捧げたい。

2.26と、これに先立って起こった5.15事件に対して想起することは「維新」という言葉についてである。いずれも、昭和維新を旗印に決起し、そしていずれも幻に終わった。日本的美学の結晶と評する人もいるし、いまだ見ぬ維新政府への憧憬から澎湃として起こった潮流と見る向きもある。
一方、あの動乱に携わった人びとの熱情を見るにつけ、現代あちこちで唱えられる「維新」は、どの面をとっても雲泥の差といわざるを得ず、ずいぶん「維新」も安い概念に成り下がったものだとも思う。

そもそも、「維新」とは何なのか。そのまま読めば、「維れ新たなり」である。
時代を覆う価値観を、ほぼ全ての面で一新する。明治時代、この潮流を「御一新」と呼んだことも頷ける。ただし、日本的維新には、そこに天皇への回帰が意味されていた。そこが、中国における「維新=王朝交代」とは決定的に異なる要素だった。
教科書的な物言いになるが、明治維新では大政奉還が行われ、天皇に統治大権を戻した。しかし、それで永遠に美しい国とはならなかった。明治憲法や教育勅語を発布しても、人心の動揺はいつまでもついてまわったし、戊申詔書で補強しても、国民はそう簡単にまとまらなかった。ただ、天皇への尊崇だけは民族的遺伝として継承されてきた。そこには言葉だけでは言い尽くせない、民族の記憶としての天皇像が、日本人には本来的に備わっていた。
これを具体的に、「なんとなく」ではなく、現実の政治や社会に完全に反映し、高天原を地上に再現しようとした運動。それが「日本的維新」運動の原像だった。
「平成維新だとかいっているが、「昭和維新」も未だ完遂されていない。平成維新をいう前に、まず昭和維新の実現が先だ」という意見がある。
世の腐敗・不条理を完璧に糺し、国を大祓しようとした…それが「昭和維新」の目的とするならば、確かに今もってこれは実現されていない。昭和か平成かという元号の違いではなく、そうした目的を遂げるのが「昭和維新」なのである、ということが理解できる。
現在でも「青年日本の歌」が愛唱され、特別な響きをもって私たちに迫ってくる「昭和維新」という言葉。
このあまりにも熱のこもった言葉の前に立ち尽くすことしかできない現代の私たちは、本当に「維新」を唱える資格が残っているのだろうか。
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2015.02.22 竹島の日

本日は竹島の日。
島根県では式典行事とともに、日韓両国の政治活動家が互いの主張を訴えていることだろうと思う。

竹島は日本の領土だとの認識は、国家としては変えてはならないが、しかしこのまま平行線が続いても良いはずがない。
尖閣にしても北方領土にしても、日本として示さなければならない意志とは別に、互いにとって最良の落としどころをしっかり突き詰める必要があるだろう。
国家ぐるみで互いに勇ましいことばかり言って具体策に何の進展も見いだせていないのは、結局国民不安のガス抜きとしての領土問題に過ぎず、両国ともに「子供の喧嘩」から脱することなど出来ないだろう。
それを抜け出し、「大人の対応」として解決しうる国は、日本以外にあるまい。

日本よ、ガキの喧嘩は止めよ。そして、国際問題で常に米国に伺い立てるようなガキの使いみたいな外交から卒業せよ。

2015.02.11 奉祝 紀元節

この国に生まれ育ち、生かされていることに、無上の幸せを感じます。


「紀元節の歌」
雲に聳ゆる 高千穂の
高嶺おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御代を
仰ぐ今日こそ 楽しけれ


とかつて歌われたようには、なかなかいかないのが現代人の情けないところ…。

この時季の演台はとにかく寒い!
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