上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

先週の土曜日、大阪市内で有志による街頭演説会を見学。主催団体の委員長も東京より参加されており、気迫のこもった演説に立ち止まって聴かれる方も多かった。関西にはなかなかない雰囲気の演説は、我ながら新鮮な気分で聴くことが出来た。このご縁をいただいた有志諸氏に、御礼申し上げたい。

さて、ここへ行く前は京都にいたのだが、繁華街でデモが行われていた。週末にしっかり声を上げているな、と隊列を目指していくと、なんとそこには5名の学生だけが「生きさせろ」「政治の暴走を許すな」とサウンドを混ぜながら練り歩いていた。私も隊列に加わり、参加者と少しだけ話した。スローガンは、見よう
によっては反日的な内容のものもあったが、少人数でも意志を一つにして社会へ声を投げかける行為は、素晴らしかった。きっと沿道の国民は、「たかが5名で…」「何のために…」など、あらぬ感情を抱くのだろうが、少なくともそういう多数の人々は、明確な意見を街頭に訴え出る行為は理解できないだろう。それこそが、社会の不条理を肥大化させる一因になるにも関わらず。

はたまた、大阪での有志による演説会。こちらも、街頭での関心は集めても、主体的に話す人は少数であることに変わりはない。しかし、こういう小規模による発信がもっと各地で広まれば(共産主義的にいう細胞だ 笑)、ひょっとしたら何かが変わるかも…という期待を胸にしつつ、今日もどこかで誰かが話しているのだろう。
色んな声があがる社会の方が、やはりいい。それを封殺しようとする現況に、一喝しよう。
スポンサーサイト
2014.10.20 奉祝 地久節
皇后陛下の傘寿のご生誕日を、国民一同心よりご奉祝申し上げます。

2674年神無月20日
大東亜青年倶楽部
安倍首相は、靖国神社の秋期例大祭にて、参拝をしない代わりに真榊を奉納したそうだ。誰が参拝する、しないといういつもながらのステレオタイプな報道だったが、ご本人は参拝しないよりはマシな行為と認識しているのだろう。これ以上コメントのしようがない。

ところで、その報道と同じくして、在沖米軍普天間基地の運用停止について、米国としては拒否する姿勢を明らかにしたという。もともと、同基地は平成31年(2019)を目処に停止し、平成34年(2022)に皇土奉還という日程で、日米両政府として決定していたことであったが、ここへきて米国側は見事にこれを反故にした。ナントカ自衛権の名目で、米軍はずっと日本を前線基地として使用しつづけるという意味だろうか。国辱以外の何物でもないだろう。
安倍首相は、「英霊にこたえる」「戦後レジームからの脱却」をしきりに唱えている。にもかかわらず、米国のこの妄言に何の抗議もせずにいるのは、正気の沙汰ではない。一体、何のために靖国に榊を奉納し、何者に応えるつもりなのだろうか。
そして、あろうことか仲井真沖縄県知事も、この米国の妄言について「我々としてはやれることはやっているから、あとは静観しよう」と他人事を決め込んでしまう始末だ。これが、本気で奉還を目指す者の発言だろうか。
結局国内でなんだかんだと騒いでいても、ソーシュコク米国様から一言されればそれでおしまいなのだ。その単細胞的な奴隷根性は、全く政府と同根だ。そんなに米国が、国内の世論が、貫けない自分が怖いのか?同じチキンでも、絶対食べたくない種類だ。
2014.10.16 承認願望
ここ数年、どこもかしこも「ストレス」だ「うつ」だと、メンヘルに関する言葉を見ない日はない。
これほどまで「うつを治そう」「自己啓発だ」「心豊かに」などと氾濫していたら、見させられるこちらまで何か強迫観念のように「ひょっとしたら自分も病んでるのでは?」と苛まれてしまう。

実際、職場でも学校でも、少しでもしんどければ神経科や精神科にかけこみ、何らかの診断・処方をもらう光景は珍しくないそうだ。重度の場合ならいざ知らず、ちょっとダルいと、「軽うつ」と診断され、なにがしかの薬を処方してもらう。
そうなると、もう半永久的に薬とつきあう生活なのだそうだ。そして、そのように診断された本人も、「私は病気です」と自己認識するようになり、そのような扱いを社会に求めるのだという。「自分はこの社会で生きていけない。だから病んだ。そんな自分を分かってくれ」という、一種の承認願望だろうか。
厚労省も、この社会的問題について注意はしているが、本腰入れて対策を講じているようには思えない。そこでこの言葉が飛び出すのだ。「そうなったのも、自己責任でしょ」と…。

しかし、うつにしろパニックにしろ発達にしろ、こういう言葉が日常的に使われているのがそもそも異常だろう。かつてもこういう状態の人々は一定数いたであろうし、またれっきとした病として社会的に認知されたことにより、彼らの境遇にも良い意味での変化はいくらかはあったことだろう。
ただ、私たちは生き続けなければならない。病んでいても健康であっても、「生き続けなければならない」ことにおいては皆平等だ。ところが、「自己責任でしょ」と突き放しがちな権力側の常套的な理屈からすれば、そうした最低限の条件すら認定しようとしていないのではないか、と暗澹たる気分になる。私たちに、彼らを救える手立てはあるだろうか。
先日、ある予定までの時間つぶしの店を探していると、新しく出来た風の喫茶店があったので入ってみた。そこには、外国人の青年が一人で切り盛りしていて、客はたまたま私一人だった。
カウンター越しに色々と話をした。出身は米国で、この春から日本にやってきて、この店で働いているという。また、店はもう一人と回していて、自分は今日は遅番だという。店自体も春にオープンしたばかり、まだ使い込まれていない内装や、少しぎこちない応対に、ほのぼのとした新鮮さを感じた。

この青年、どことなく東洋的だった。聞けば、親御さんは日系人とのこと。親御さんはずっと米国に暮らしていたらしく、彼らは日本のことは全く分からないという。
そういう環境の中で彼一人日本行きを志し、親御さんに何も言われなかったのか尋ねてみた。すると、「君が行きたいならしっかり行ったらいいよ」と、快く背中を押してくれたという。
いい話だな、と思った。

米国には黒人も日系人もヒスパニックも多くいる。「人種のるつぼ」とはよくいったものだ。そして、彼らの多くは大なり小なり虐げられてきた人々だった。日系人の子である彼も、私たちには分からない感覚があることだろう。親御さんには、かつての母国のことは分からなくとも、その子孫たる彼の目に映る日本は、どんな姿で迫ってくることだろうか。恥ずかしくない姿を、私たちは見せられているだろうか。

また、お店に遊びに行ってみよう。
「イスラム国」への参加を希望した学生が、私戦予備・陰謀罪という変わった疑いで、聴取を受けているという。また、彼と同国とをつないだ元大学教授やジャーナリストも、連日にわたり聴取・捜索が続いているらしい。
かつて、『希望は戦争』という書が話題になった。ここで示唆されていることが、目の当たりな状況になっているのだ。

さて、イスラム国を例に挙げるまでもなく、イスラム原理主義に走っている若者は世界に数多い。特に欧州では、希望者が多いという。さらにあろうことか米国の若者も、彼らに同調する者が増えているのだという。世界的にアノミーになりつつある中、このことは日本だけの問題ではなさそうだ。

ところで、この事件の裏で、日米ガイドラインの報告書が公になった。集団的自衛権で騒がれていた時、「運用はあくまで限定的」という約束は見事に反故にされた形となっていた。わかりきっていたことではあるかもしれない。しかし、これで地理的条件はなし崩し的に、どこまでも米国の指図の下に血を流さざるを得なくなってしまった。憲法九条を護るだの言っていれば良い日はとうに過ぎてしまったのだ。この際、ナントカヘーワ賞に何の意味があるのだろう。世界中で核実験を行っている米国大統領が授与されたヘーワ賞と同等のものに、喜びや意義を感じている日本人がいるとしたら、その骨の髄まで浸みた奴隷根性に目を覆いたくなる。

社会の構造的な不条理が蔓延すれば、若者は右傾化に走り、全体主義を下支えする構造は、今世紀に入って間もないころから言われてきた。その状況に対して思想・宗教世界は、何らの福音も社会にはもたらさず、結果的に自民党がかつてより劣化した状態で国民を欺き続けていることは、大抵の国民は気がついているはずだ。そして、もうどのような状況になっても、とっくにこの国には希望もなく、諦めがついていると、無自覚的にそういう国民精神になってしまっている。かくいう私も、多分その一人かもしれない。

ともあれ、国民には嘘ばかりつきつづけ、米国にはアゴで使われることもいとわない政府には、むしろ期待しようというのが非合理というものだろう。であれば、新天地を外国に求める者がいても不思議ではない。今回のイスラム国への渡航計画もその一例だろうし、むしろそこに生きる価値を見出したのなら、是非完遂してほしかった。この青年の無念を想う。

それを、テロへの支援だのと意味不明な言いがかりで関係者を弾圧し、その
... 続きを読む
2014.10.08 ワンオペ
ワンオペが社会的な問題となっている。主にチェーン店(かつ、その多くはブラック企業と認定されがちだ)のシフト業務で発生しているのだが、開店から閉店まで、一人で店の切り盛りの全てをこなさなくてはならず、心身不調に陥ってしまうケースのことを指すそうだ。
自営で飲食店をやっている方なら、皆ワンオペでこなしているし、責任感も重大だ。しかし、チェーン店のアルバイトでそこまでさせるのはどうか、ということだろう。
概ね、こういうチェーン店業界には労組もなく、低賃金が常態化している。そこに過重な負担を強いるのは、労働環境からも企業倫理の観点からも宜しくない、というところだろう。

ここで、かつてのアルバイトした者なら、皆こういう経験はあるよ、今の子は弱いんじゃないか、という根性論的な反論はよそう。労働観は、その時々の社会状況によって変わる。いくら日本人が勤勉で、粘り強いという民族性があったとしても、そこにつけこんで低賃金・重労働を強いるのは筋が違うだろう。仮にも、そういう素晴らしい民族性があるならば、企業側はそれを正しい方向に導かなければならない。それは、適度な休息と定期的な昇給にほかならない。
2014.10.07 毒親
昨今、「毒親」をテーマにした本がブームらしい。子に過干渉な親のことを揶揄した言葉だが、子の生活から将来までことあるごとに口出しをし、コントロールしたがる性質の親のことを指すようだ。
当の親は、子にとって良かれと思っての干渉であるから始末が悪い。

いつの時代にも見られた現象だとは思うのだが、子と親の関係性は難しい。子には愛情を目一杯注ぐべきだろうし、また注がれた子は、次の世代にも同じように愛情を受け継いでいくだろう。問題は、その愛情の度合いだ。
子を無条件に愛することは、恐らくその子の可能性を最大限に伸ばし、一人の人間として相対していくことだろうと思う。
そこには、過干渉や無関心などということはない。親子とはいえ一対一の人間として衝突もし、高めあっていくことだろう。
しかし、「子のため」とはいえ全てにわたり予めレールを引いてしまうことは、その路線以外は認めない、型にはまった狭い愛情だろう。そこには、線路からの脱線や減速や修理が認められていないからだ。むろん、それは無いに越したことはない。だが、出発から終点まで何もない線路は、正直いってつまらない。
たとえは悪いが、事故も脱線もあって、その線路は欠点を補い頑丈なものになっていくものではないか。

親は、子の将来を案じ色々と悩み苦しむ生き物だと思う。現に私もそうだ。しかし、誰でもそうであるように、親の希望どおりに生きてきた人間などいないはずだ。親を乗り越え、しかしそれを受け入れてくれたと気付いたときに、初めて親の立派さも分かるのではないか。
そして、このことは、何も親子関係だけにあてはまることではあるまい。上司と社員、親分と子分、先輩と後輩、社会の人間関係のほとんどに通用する。コントロールされるのは確かにある程度は楽かもしれない。しかし、私は敢えて言いたい。ちょっとだけでいい、その枠からはみ出てみろ、と。毒に冒される前に…。
2014.10.02 検索上位対策
日々ブログを更新していると、どうしても検索でひっかかりやすくなってほしい欲求が出てくる。このブログも、さすがに予測検索上位に出てくることはないけれども、「大東亜」で検索すると、関連キーワードにはたまにひっかかるようになった。ヘボいブログとはいえ、やはり、何だか嬉しい。

検索対策は、やはりグーグルでいかにひっかかるか、がカギだそうだ。もちろん、他の検索サイトでもそれなりに対策としては有効なのだろうけれど、まずはグーグルでいかにヒットするか、を意識することが重要らしい。

ともかく、そうして色々と予測検索で遊んでいると、「大東亜自転車倶楽部」なるブログを発見した。もう移転・元のブログは閉鎖されて久しいようだが、一体どんな倶楽部なのか気になるところだ。大東亜世界の自転車なんて、何十億台あるのか分からない(笑)。きっと、内輪の自転車サークルなのだろうけど、その心意気やよし。

そして私たちの名前も、結構スケールの大きい名前だ。実際の活動は小さいけれど、意識は日本そして東亜世界の自主自立を目指すことにあります。

神無月も、宜敷お願い申し上げます。
2014.10.01 理想の国歌
日本の国歌は、いうまでもなく「君が代」だ。しかし、残念ながらこれに反対する人も中にはいる。そして、たまに代案として「第二国歌」や「新国歌」が提案されたりもする。
発想自体は決して悪いものではないのだが、しかし、どんなに素晴らしい歌詞や旋律でもってしても、結果的に「君が代」のスケールには勝てない。それだけ、万葉に歌われた「君が代」の世界が、現代の日本人に受け継がれ、民族の遺伝子としてその世界を共有できているからだろう。
ある人は、「君が代を歌うと涙が出る」と表明された。然りである。この涙の意味を大切にしたい。

ところで、世界中の国歌は、それぞれの文化・歴史を反映させたものであることはいうまでもないし、これらに愛着をもち、敬意を表することもまた当然のことだろう。
最近、これらの基本的なことが護られていないように思う。また、自然に敬われるべきこれらが、時の権力によって護持を強制されたり、抑圧されるようなこともあってはならない。
国旗・国歌は、国民がおのずから愛するものだろうし、私たち自身も、家庭や社会でそうした環境を醸成しなければならない。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。