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昨日、13回目の「反中共デー」が、同志同憂の手により敢行された。筆者も飛び入りで参加し声を挙げたが、今も人民の自由を奪いつづけている中共に本当に必要なことは、実質的に市場経済を導入し、内実は民主化に移行しているにもかかわらず、政体とその拠って立つ思想とのギャップを埋めることだろう。
中国に限らず、共産革命を遂げた国々は、ほぼ全てが悲惨な末路をたどっている。
結果的に保身という反動に走らざるを得なかった彼らに対する、民衆からの突き上げは当然激しくなるのだった。要は我々も、ステレオタイプな「反共」で声高に共産党を否定するのではなく、中共政府に対しては徹底した自己批判を、そして人民には立ち上がる勇気を呼びかけるものにしなくてはならない。

そんな中、土井たか子が逝去された報道を目にした。彼女の政治思想や行動には、異論も多かろう。また、ついに最期まで、彼女を取り巻いていた利権問題が明らかにされることはなかった(彼女には護憲で世論をリードしながらも、莫大なパチンコ利権がついていた。このことを初めに具体的に指摘したのは、宮崎学氏である)。ともかく、色んな意味で戦後を代表する政治家が去ったことは惜しいことだと思う。哀悼の念を捧げたい。
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2014.09.27 凶育の本源
「日本の戦後教育は、凶育だった」「教育の荒廃化は日教組・全教が招いてきた。だから、彼らを批判・粉砕しなければならない」という言説が、私たちの周りでは長く支配的だった。
しかし、ここで敢えて言いたい。その凶育を受けてきたのは、他ならぬ私たち自身であり、しかも日教組や全教を温存してきたのは、政府自民党・文科省であったことを。
私たちは、批判の矛先を間違えていないか。反日教育の本山は、日教組でも全教でもなく、政府だろう。

冒頭から、なぜこのようなことを書いたかというと、今朝看過できないニュースが飛び込んできたからだった。
文科省の発表によれば、少なくとも小学校3年生から英語を学習させ、5年生から正式な教科に組み込むべきだはないかというのだ。また、これに関連して、大学もグローバル化に対応するため、上位37大学を「スーパーグローバル大学」に位置づけ、年間約2億~4億円の援助を行い、国際的な競争力をつけさせようとするという。
やたらと国際化と喧しい。その政府の危機感も分らなくはないが、恐らく教育現場とのギャップがますます広がるだけだろう。英語の大切さも分かるし、大学も生き残りがかかっているのだろう。しかし、そういう現実の根底に何が必要なのか、を政府は本当に認識出来ているのだろうか。全てが闇雲に走っているだけではないのか。

英語力というなら、まずは国語を万全に教え込む。国際力などその次だろう。要は、私たち自身が、どれだけ「日本人」として生きているか、ではないのか。言葉・知識・行動を整えて初めて「日本人」たり得る資質ができる。それらを教え、教わる機会もないままに、むやみに外国語だ国際化だと押しつけられれば、民族としてのアイデンティティ形成はより希薄なものになるのではないか。国際化の名の下での外患誘致といっても過言ではあるまい。
そして、これらをやってのけようとするのは、日教組や全教ではない。「日本を取り戻す」などとうそぶいている政府・自民党なのだ。私たちは、かかる安易なグローバリズム化に乗っかる愚を批判する時ではないか。再度いう。日本及び日本的なるものへの最大の挑戦者は、日共でも社民でも創価でもない。政府・自民党である。
現在渡米中の安倍首相は、国連総会の演説で常任理事国入りへの意欲を語ったそうだ。
国内向けには「戦後レジームの脱却」を謳っておきながら、戦後体制の象徴的産物といっても良い国連にわざわざ入ろうとしている真意はどこにあるのだろうか。
米国をはじめとする白人勢力の、身勝手な空爆に諸手を挙げて賛成し、いつまで経っても米国の核の傘の中でエラソーなことを言い続けている、自民党ならではの発想だ。
もっとも、安倍氏は拉致問題にだけは熱心らしいし、それを実現するには国連とも連携して対処しようという思惑があるのかもしれないが、仮にそれが実現されれば、真の独立を目指す気構えがあってのことなのだろうか。残念ながら、安倍氏の表情に、そんな肚があるようには思えない。
そんな中、国内では維新の党だの太陽の党だの、一体何をやりたいのか意味不明の連中が相変わらず蠢いている。天の岩戸が開くのは、一体いつになるのだろう。
「どちらも詰まって苦しいです(笑)」。

どこもかしこも金に苦しい。筆者の近辺でも(自身も含め…)、そんな話ばかりだ。カネに困り、振り回され、身動きとれない…。
いっそのこと、カネのない世の中になればなぁと夢想するが、きっとそれは間違いなく退屈な世界だろう。

カネに汲々している人間の姿は醜く、滑稽だ。でも、その人間臭い世界を、もう少し楽しむとしよう。
朝日新聞が揺れている。2つの吉田調書を巡っての捏造記事しかり、池上彰氏のコラムの掲載問題しかり…。
確かに、曖昧な情報をもとに、思い込みで記事が社会に否世界に出回り、日本に冤罪を招いた責任は大きいだろう。外患誘致といわれても仕方のないことであろう。朝日に自浄作用が残っているかどうか、これからが正念場ともいえよう。

しかし…である。この問題を朝日のみ対象としている風潮にも、どうにも気にかかる。世論をミスリードした記事など、他紙では全くやっていないのだろうか。
少し冷静に考えてみれば、10数年前のアフガン・イラク戦争で、米国の「大量破壊兵器はある」という論法に延々引きずられ、政府とともに世界をミスリードしたのは、朝日だけではあるまい。今日に至るアラブ世界の泥沼は、一体誰が招いたのだろうか。これこそ、五大紙のほぼ全て、あの当時は責任があったのではないのか。
このような事例、およそ「米国に弱く、官に弱く、国民に強い」日本メディアにとってみれば、枚挙にいとまがないように思うのだが如何。

今、猫も杓子も「朝日叩き」だ。まるで、嫌韓ブームに便乗しているかのように…。確かに、間違った報道は厳しく糺されなければならないが、我が国民の悪弊としてある一点集中的に問題に乗っかる風潮だけはごめんだ。かの野村秋介氏は、朝日に「社会の木鐸」としての役割を期待しつつ自裁された。我が身に代えて、朝日を最大限に攻撃しつつ、期待も失っていなかったのだ。
朝日を叩きながらも、では他のメディアではどうなのか、という冷徹な眼を、特に私たちは霞ませてはならないだろう。
スコットランドの独立に関する国民投票が行われた。結果はどうやら反対多数により否決されたが、国民投票という平和的な方法ではあれ、独立について国が二分された意義は大きい。
ある見方では、この動きは民族独立の狼煙として、これから世界中に飛び火するかもしれないとも指摘されているし(現に、ウクライナやイスラム国の動きは民族独立行動の流れに位置づけられるだろう)、仮にそれが限定的なものに終わったとしても、英国の統治能力は確実に衰えを見せていくだろう。WASPおよびY/P体制の綻びがそこかしこに出てきている。

さて、これらの潮流を見るにつけ、我が日本だが…。日本は69年間、米国の隷属化に置かれてきた。その間、日本および日本人は堕ち続けた。私たちは、昨今の世界中での独立の狼煙の機運を、遠い国の出来事として見過ごしていないか。私たちが日ごろ民族独立を謳いながら、その実機運をみすみす手放しているかのように見えるのは、気のせいだろうか。もしそうだとしたら、日本は融解を待つしかあるまい。
京都に、洛風書房という書店がある。新刊・古書ともに扱っており、しかも価格帯はかなり安い。筆者もたまに購入することがある。得意とする分野は、国史・国学などで、民族派の機関紙誌の取り扱いも豊富だ。近畿で、こういう色彩の書店は大変珍しい。恐らく、唯一ではないだろうか。
さて、その洛風書房が創業40周年を迎えるとのことで、以下の通り記念行事を開催することとなったようだ。ご関心のある方はご参加を。
参加申込は10月10日(金)まで。


洛風書房創業40周年記念行事

■第一部 現代日本学講座 午後2時~
『放射線の正しい知識』大阪大学名誉教授・中村仁信 先生
『皇室典範改正案について』伏見稲荷大社祢宜・黒田秀高 先生
於・京都平安ホテル
http://www.kyoto-heian-hotel.com/access/index.html
京都市上京区烏丸通上長者町上ル
電話:075-432-6181
聴講代・1000円

■第二部 記念の宴 午後5時30分~
於・京都ガーデンパレス
http://www.hotelgp-kyoto.com/access/
京都市上京区烏丸通下長者町上ル
電話:075-411-0111
会費・8000円

※京都平安ホテル・京都ガーデンパレスとも地下鉄烏丸線・今出川駅又は丸太町駅から6~7分

【洛風書房】〒604-0912 京都市中京区二条通河原町東入
京都書店会館2F TEL 075-241-3849/FAX 075-241-2193
米国は、混沌が続いているイスラム国へ持続的に空爆を行う方向であることを表明した。
アフガン・イラクで疲弊しきった米国は、まだも懲りずに世界中に悲劇をもたらし続けるのだ。こんなことが許されて良いわけがない。

空爆の目的は、暴力を行使している当事者(イスラム国)にのみ行い、非戦闘員の安全は確保するというが、そもそも敵地を攻撃するのに、差別も無差別もない。こうして、新たな悲劇と報復の連鎖が続いていくことについて、反対の声をあげることは、「ヘーワなお花畑脳」の「似非ヒューマニズム」に満ちた言説だろうか。
無差別攻撃の残酷さは、かつて日本にもたらした空爆と原爆が見事に証明している。私たちこそ、米国に対して、このような蛮行を食い止められる資格があるはずだ。少なくとも、彼らの行動に歩調を合わせて、「ナントカ自衛権」でしか粋がれないのは、日本の本来の仕事ではないことは明らかなはずだ。
2014.09.12 ビックリマン
今年はビックリマン誕生30周年を迎えるにあたり、イベントや記念グッズの展開が目白押しだ。もっとも、30周年というのは、「天使v.s.悪魔シール」シリーズ誕生から数えてのことで、ビックリマンシリーズそのものは、昭和53年から発生しているのだが、ともあれ、「天使v.s.悪魔」シリーズは、一大社会現象を巻き起こしたことは周知の通りだろう。
私も、もちろんどっぷりとその世界にはまった。そして今、リバイバル版が次々と発売され、シールの質も価格も、大きく当時と変わった。私も当然のようにそれらを買い、しばし懐旧に浸った…。しかし、あの時の「ビックリマン」とは何かが違うのだ。

まずお菓子。かつては、ウエハースチョコを捨て、シールだけ抜き取ることが問題となったが、私は結構このお菓子も好きだった。今発売されているものも、確かに美味しい。でも、そこには当時配合されていたピーナッツがなかった。この1点だけとってみても、当時の美味しさには叶わない。
シールも、現在のものはキラキラしていて、エンボス加工まで施されている。当時は食玩にそこまで凝らすことはなかった。やはり嗜好が贅沢になったのだろうか、同じシールでも、当時のシールの風合いが無性に愛おしい。

つまり、30周年だと「かつて熱狂した子どもたち」が騒いでいても(私も、その末端にはいるのだが…)、もうあの頃のビックリマンには決して戻れないのだ。現在のビックリマンは、パッケージは同じでも、別物になってしまったのだ。そう、昔パッチもんで流行っていた、「ロッチ」のビックリマンのように…。
2014.09.11 9.11に思う
今から13年前、米国に鉄槌が下された。あの日の犠牲者に対しては、心から哀悼の意を表する。
それを踏まえた上で、もっとも重要なことは、米国が一瞬にしてなぜあのような立場になったのか、ということについて、彼ら自身が向き合い、総括することである。

世界中に紛争と虐殺の種をまき、また彼らの理想とする文明に、少しでも自身に違和感を与えるような世界に対しては是が非でも米国に順わせようとしてきたのが、米国の建国以来の歴史である。
かつて、そこに敢然と異を唱えたのは、誰あろう日本人であった。私たちは、この声の意義を追究し続ける必要がある。そして、他者への想像力を欠如させてきたことで国力を増強させてきた米国は、今こそ自分たちの行為を省み、彼らが得意とする孤立主義ではなく、世界に対し歩み寄るべきではないか。米国が一方的にリードする時代は終わった。これからは、彼らが世界の多様な文明に歩調を合わせるときなのだ。
宮内庁が先帝実録を公開した。激動の昭和時代を一身にお引き受けになった先帝の御労苦を偲びつつ、その折々に語られたお言葉を拝することは、歴史を知る意味でも、誠に貴重な機会であるといわねばならない。
今公開により、初めて明らかになる事実もあることだろう。私たちは、謙虚に先帝の言行録に頭を垂れ、我が国の未来を考えるよすがとしたい。

今日はところ変わって、梅田の有志演説会に応援に赴いた。7月以来、2ヶ月ぶりの演説会だ。

やはり気候も涼しくなってきたためか、人通りも多く、反応もしっかり頂いた。訴えた内容は、昨日の難波と大体同じだったのだが、僅かでも私たちの声が、聴衆の耳に残ってくれれば有り難いことである。

http://m.youtube.com/watch?v=lM2V0SAmt0I&itct=CBsQpDAYACITCKqKirLW0MACFY5vWAodh3wA8jILYzQtb3ZlcnZpZXdaGFVDai13eU5tWmZYMDR6dVFZb0lROE1OQQ%3D%3D&client=mv-google&hl=ja&gl=JP

今日は、難波にて同憂の士による街頭集会が行われたため、応援に赴いた。

社会に対してしっかり声を上げ、新たな潮流を作っていこう、といつもながら訴えたわけだが、こう唱えながら、本当にそんなことが可能なのだろうかと思うときがある。

維新にしろ革命にしろ、これまでの歴史でそれが真に成し遂げられたことは一度もなかった。明治維新を我が国史上の一大画期とする見方もあるが、結局のところ明治維新さえも、「上からの維新」であって、変革を志向する民衆のマグマも権力に回収されたのが実情だった。
それから一世紀以上経ち、我が国は米国の植民地にまで成り下がった。そこでは、考えること、発言すること、行動することは、社会からはみ出た動きとして排除されてきた。そして、張りぼてのような現政権が支持されるような衆愚状況が出来した。
ことここに至って、なお主体的に動こうともしない現代人に、私たちは一体何を呼びかけ、促すことができるのだろう。
左右を問わず、思想世界の内部からでさえ、こういう模索がなされなくなりつつあるのは、悲劇を通り越して滑稽ですらある。何をもっての社会・政治運動なのだろう。

そんなモヤモヤをずっと抱えながらも、私はやはり、好きなときに、言いたいことを話し続けるのだろう。
大阪は、恐らく日本一、多民族が暮らしている街だろう。
実際、「大阪民国」などと言われたり、何か事件が起きるたびに「また大阪か!」と、他府県から嘲りの眼差しで見られることが多い。また、そこに住む私たちも、あえて自虐的に大阪を語ることさえある。

しかし、大都市の特長でもあろうか、私は、大阪(周辺の近畿圏も含めて)ほど人間に対して包容力のある都市を知らない。大阪のどこへ行っても見かける下町と、そこに行き交う人情。もちろん他の街にもあるだろうけれど、大阪の人間くさい土壌は、部落も在日も外国人も、皆溶け込ませてしまう魅力がある。
そして、その人間くさい雰囲気や包容力こそが、日本の風土なのだ。大阪をはじめとする近畿の世界こそ、日本の文化的風土を象徴する地域なのだ。
2014.09.01 飄々と考える

一般的に「飄々としている」と言う際、大体の場合において「どことなくふわふわした印象の人間」として語られることが多い。そして、そこにはしばしばネガティブな意味も含まれるが、本来は超然として、世俗の価値基準に左右されない態度のことを指す。

善悪や正邪はおろか、左右も聖俗もほとんどが即物的・刹那的・自棄的な価値判断が優先される時代、このような姿勢を保つことは難しい。
しかし、先日も書いた「志操を堅固に」という態度を、曲がりなりにでも維持しようとする際、時流のことは横目で見やりつつ、あくまでも自身の関心に愚直であることが肝要だ(それも自然体で)。それはきっと、時の政権批判も大切だろうけれど、自分自身がどのように生き、どのような足跡を周りに伝えられるか、ということにつながろう。
ところで、筆者自身の思想的立場は反米だ。しかし、親米とは諸刃の剣であるという批判も続く限り、私たち独自の米国観も、既にステレオタイプなものになりかけているのかもしれない。
戦後の清算が今なお中途半端なまま(むしろ、最近は放棄しようとさえしている)で止まっていて、その間隙を衝くような変革後の世界観すらもろくに打ち出せていない(あるいは、打ち出そうともしない)日本の思想世界の貧困さを思う。

ただし、個人的な告白をすると、そのような中にあっても、ともに語り、考える仲間に恵まれていることが幸せだ。
長い時間をかけて、飄々と模索していこう。
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