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2014.08.30 志操堅固に
思想に生き志操に殉ず、という言葉がある。ある、というより、古典にある言葉でもなく、誰かがどこかで言い出した造語かもしれない。
己れの思想・信条の欲するところに歩み、何があってもその考えを曲げず、愚直に生き、死ぬ。言うは易し、行うは難しの世界そのものだ。この言葉の通り生ききった人間はそういない。いないけれども、少なくともなにがしかのイデオロギーに出会い、生きようとする私たちにとって、惹かれて止まない言葉ではある。

しかし一方、これに忠実な人間は、とんでもなく頑固で不器用で馬鹿正直だともいえる。いわんや、世知辛い現代においてをや。大して得にもならない、どちらかというと損することが多そうな生き方で、あえてそのような道に進もうとすることに何の意味があるのか、と自問したくなる時もある。

それに対する明確な答えなどないのだが、まずは暗中模索しながら、その深い霧の中から、私たちの生きる糧がほのかにでも見えるまで、飄々と尋ね歩きたい。
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2014.08.27 嗚呼、軍歌
先日新聞を読んでいたら、「最近若い人の間で軍歌が再人気」という記事を見つけた。
読み進めると、「当時の歌を聴いて、今の平和をかみしめたい」「仕事前に軍歌を聴くと、元気が出る(士気が上がる、ということか?)」などの声が見られ、最近ではアニメの挿入歌にも「雪の進軍」が使われたりもしているのだという。

彼ら若い人々の、軍歌に対する考えの一端がよくうかがえる記事だった。私も、その気持ちはよく分かるし、しばらくは軍歌の音源をかなり集中的に集めた時期もあった。それに、今思い返せばとんでもない幼稚な発想だが、仕事前に聴いて士気を高めた(つもりなのだが)こともあった。カラオケでも、軍歌をがなって手前勝手に強気になっていたこともあった。

しかし、今は進んで軍歌の音源を聴かなくなった。聴きすぎた、もしくは聞き飽きた…?

軍歌・戦時歌謡を聴いていくにつれ、歌詞や旋律に表れた日本人の豊饒な言葉、感性に圧倒され、いつしか「単なる娯楽」や「士気を高めるため」のような感覚で聴けなくなってしまい、いつしか、棚に置き続けることになってしまったのだ。
それは、戦後の歌謡曲でも同様で、昭和30年代あたりまでの歌に描かれる情景は、何と詩的で私たちの胸奥に響き続けることだろう。むろん、今の歌にも名作はたくさんあるのだが、私たちが生まれてもいない、また戦後なお激動の止まなかった時代の歌に、なぜここまで心を動かされるのだろうか。
色んな視点から考察が可能とは思うが、やはり以前にも書いたように、ある時代への憧憬があるのだろうと思う。
そして、軍歌にも、勇ましく、いじましく国を護ってきた(実態はさておき)国民像への幻想が、現代の私たちをして抱かせているのではないだろうか。

いずれにせよ、軍歌は、かつてこの国を必死で護ろうとした同胞への鎮魂歌である。ただ単に、テンションが上がるから聴くというのではなく、その歌心に託された思念にじっとたたずむ時があっても良いように思う。
8月19日、南シナ海で中共戦闘機が米軍哨戒機に異常接近。最接近時は6メートルであったらしく、激突寸前だ。

中共機の性能などを指摘する向きもあるが、これは米軍がわざとそのように差し向けた可能性も排除できないのではないか。現状どの報道を見ても、中共が異常接近した、という視点だが、ではなぜそこまで接近していて米機はその空路を維持していたのか?警告は発していたにせよ、米機から離れるということはなかったのだろうか。中共の肩をもつ気は毛頭ないが、どうにも胡散臭い。何故か。

つまり、もし万一、最悪の事態が起きてしまったとき、集団的自衛権の発動につなげられるからだ。はりぼての国防論で勝手に勢いづいている日本政府としては、米国のために活躍できるまたとない機会だ。米国としても、その事態になれば、今すぐにでも「一緒に中国と戦おう!」という、またも手前勝手な正義感で日本を巻き込んで行くに違いない。今回の件は、未遂に終わったとはいえ、今後米中が本当にぶつかった時、日本がどのように対応すれば良いのか、その試金石となったのではないか。

しかし思うのは、結局、米中という二大国の狭間で、良いようにこき使われているだけではないか、ナントカ自衛権で騒いでいる日本なんて。
2014.08.22 追悼 対馬丸
昭和19年8月22日、対馬丸事件が起こってから70年を迎えた。改めて、亡くなられた数多の同胞の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。

そして、このような蛮行を行った米軍は、やはり原爆投下を正当化し続けているのと同じく、潜水艦ボーフィンを「真珠湾の復讐に成功した」と称讃している有様だ。対馬丸の乗員の大半が非戦闘員であった事実を鑑みても、やはり彼らの行為は絶対に許されるものではないだろう。

葉月22日
大東亜青年倶楽部
タイトルで死語と連想できた方は、恐らくバブル期に就活をされていた方ではないかと思う。仕事でも何でも、やり甲斐は大切だ。

さて、とある調査で、「現職にやりがいを感じているか」という設問に「同意する」と答えた日本人の割合は77%で、その調査対象国・地域の中では最も低かったそうだ。さらに「同意しない」と答えた人は10%で、これまた割合が最も高かったらしい。逆に、途上国はこの調査に対して高水準の数字を示したという。ハングリーの差が生み出しているのだろうか。

それにしても、日本の労働観の一端がうかがえる調査ではある。確かに、この数字だと病む人も多いわけか、とうなづきたくもなる。
そもそも、仕事はしんどい。めんどくさい。できることならやりたくはない。そんなことは、誰だって感じている。
しかし、そんな理由で仕事をしなくなったら、当然食えないし、カネも回らず国も動かない。だったら労働するしかない。そして、労働に伴うしんどさの対価としてカネが得られる。しかし、そのカネには、色んな意味が含まれていると思う。やり甲斐であったり、生きがいであったりだろう。シンプルなだけに、その価値を見過ごしてはいないか?

仕事は、個人が汗することは言うまでもないが、それよりも、国という巨体を動かす原動力でもある。労働者の酷使は論外だが、私たちは「日本丸」のエンジンたらんことを自覚しよう。労働こそ最大の愛国運動であるゆえんは、ここにあるのだから。
2014.08.18 8月病?
世間ではお盆も明け、後半戦開始というところだろう。また、メディアも戦争を振り返る月間もピークを過ぎ、平常の報道体制に戻っていくことだろう。
年に一度だけでも、戦争のことを振り返り、真の平和を考える習慣がついていることは大切なことだと思う。それがたとえ、自虐的であれ自讃的であれ、過去の歴史に向き合うことは、ともすれば刹那的な生き方に馴らされがちな私たちにとって、必要な作業だ。それでも、夏休みだ、と呆け海外に行ったり、戦争のことなどお構いなしという国民も大多数いることは、誠に嘆かわしい。

そして、盆休みが明けると、また仕事だ。長らくの休みで、すぐにはエンジンがかからない。やがて、外出が億劫になる。5月病ならぬ6月病も発生したといわれる昨今、8月病患者などもいずれ出現するのではないか?
休みは休みとして思いっきり羽を伸ばし、仕事に戻るとなれば、一気に「いざ戦闘」態勢に切り替えねばならない。私たちは、ついついそのメリハリを忘れがちだ。切り替えをうまくこなし、外に出れば常に戦闘的態勢にあることを、怠ってはならない。
2014.08.15 終戦の日
大東亜戦争にて散華された数多の同胞の御霊の安らかならんことを、国民一同心よりお祈り申し上げます。

葉月15日
大東亜青年倶楽部
自民党の土屋正忠衆院議員は自身のブログで、田上富久長崎市長が平和宣言で集団的自衛権をめぐる議論に懸念を示したことについて、「核廃絶の祈りではなく、平和を維持するための政治的選択について語りたいなら、長崎市長を辞職して国政に出ることだ」と批判した。
ブログは9日付。土屋氏は「長崎市長は歴史的体験を踏まえた核廃絶について語るから権威がある。集団的自衛権うんぬんという具体的政治課題に言及すれば権威が下がる」とも指摘した。 


以上はニュースサイトからの引用だが、さすが品性下劣の代名詞、自民党議員らしい発言というべきか。全く呆れた放言だ。
確かに発言者の立場によっては、権威を損なう内容もあるだろう。しかし、この件に関しては、どちらも票田乞食ではあるが、完全に長崎市長は正しい発言を行っているし、逆にそれを批判した土屋議員の「権威」が落ちるようにも思うのだが如何。
では仮に、田上市長が国防問題について国政に問いかけた場合、土屋議員はこれに賛同し、「具体的政治課題の権威」とやらを共に上げていく意志があるということか。間違いなくNOだろう。見かけだけの勇ましい話は、大概にしておいた方が良い。

田上市長は、歴史的経験に基づいて長崎の悲劇を語っている。その経験を踏まえもせずに、米国の要求に従い同胞の血を流すことに少しの痛痒も感じていない自民党政府の方が、よほど歴史を軽視し、こけおどしの権威に酔いしれているではないか。

確かに、生活と政治は別だろう。ナントカ自衛権や核武装を選択することは、国民生活を省みず政治を優先した結果だろうし、まがい物とはいえ、国益を優先するとはそういうことなのだろう。しかし、意志のある国民は、そのミスリードされた「国益」を許さない。米国主導の、米国の国益とイコールになったそれなど、そもそも日本の「国益」などとはいえないだろう。
もっとも、自民党はそれに固執するのが党是であるから、正しくある意味「ホシュ」なのだろうけれど、そもそもそんな「ホシュ」、一体誰が賛同するのだろうか。

台風ど真ん中、少数精鋭で完徹!
有志の皆さん、有り難うございました!
「8・10広島・長崎の原爆攻撃大虐殺を忘れない反米集会デモ」関西反米集会

安倍政権の解釈改憲による集団的自衛権。この背景に皆様はどのような思いを持っておられますか?
原爆攻撃によるジェノサイド、非軍事戦闘員である国民が大量に大虐殺された我が国日本は、米国から今度は「米国の国益の為、日本の若者にその血を流せ」と突きつけてきているではないか!米軍再編の課題である陸上戦。我が国の自衛官が、自己維新とは無関係に米軍の指揮で動かされる傭兵となる事に怒りしか出ないのである!
非人道的な考えを持つ米国にいつまでも踊らされ、我々は今何を考えなければならないのか?

【場所】 大阪市浪速区日本橋東3-2 日東公園
【日時】 平成26年8月10日(日)
集会11時 デモ12時

【主催】統一戦線義勇軍 関西管区
【注意事項】
1.国旗掲揚、団体の旗の掲揚や幟や横断幕は大歓迎致しますが、反米集会に相応しくない幟は禁止致します。

2.拡声器など歓迎致します。

3.服装は基本自由ですが、徒歩行進に支障が出る服装や履物での参加はご遠慮下さい。

4.写真、動画撮影は認めますが、写され支障をきたす方々は、自衛手段で防護して下さい。
長崎で原爆の惨禍に遭われた同胞の御霊に対し、また今なお後遺症に苦しまれている国民の方々に対し心よりお悔やみ・お見舞い申し上げます。

葉月9日
大東亜青年倶楽部
米国・オバマ大統領は、「イスラム国」への限定的な空爆を承認する旨発表した。
空爆に限定も大々的もない。今日只今まで、自分たちの眼鏡にかなわない土地や勢力に対しては、何をしても良い、何をしても世界は文句を言うな、という立場を崩さない米国の横暴に、私たちは今こそ「NO」の声を上げよう。

8月10日(日)、大阪で反米集会が行われる。折しも、この日は台風が最接近する日だという。しかし、私たち有志は、この台風を神風と捉え、怒りの嵐を米国にぶつける予定だ。同志の方のご参集を、心からお願い申し上げる。

8月6日、9日、15日は、日本民族痛恨の日である。
今さら言うまでもなく、広島・長崎が米軍による原爆の惨禍に遭い、北方領土はソ連に強奪され、そして連合軍に降伏した日であった。
戦後、8月上旬は戦争報道一色になる。そして、この悲劇を忘れず、永く語り伝えていこうという、気持ちを新たにする。しかし、そこに大きな落とし穴があるような気がしてならない。

原爆を落とし、領土を奪い、今なお正義感面しているのはどの国か。それは米国であり、ロシア(旧ソ連)であり、そして世界を覆っているYP体制であろう。彼らの手前勝手な正義感が、世界中で未だに悲劇の連鎖を招いているではないか。
私たちは、平和教育によって、「戦争をしてはいけない」「核の悲劇を語り継ごう」とインプットされてきた。これはこれで大切なこととは思う。現実に、被曝一世の方々の高齢化も進み、実体験を語り伝えることは難しくなってきた。彼らの遺志を守り、伝え続ける作業は、戦後に生きている私たちの責務でもあろう。
しかし、それ以上に必要なのは、その惨劇をもたらした国々の本質を見極め、彼らへの糾弾の声を緩めてはならないということに尽きよう。それを証拠に、未だにこれらの国々は日本に対して正式な謝罪も補償も、何らのアクションも起こしていない。そればかりか、ナントカ自衛権の問題では同胞の血を差し出せと命令し、日本政府がそれに唯々諾々と従っている始末だ。これでは、対等な国際関係も、「自立した、誇りある国」の実現など、夢のまた夢だろう。

私たちは、今こそ、同胞を傷つけ、その行為を正当化し続ける「国際指定暴力団」米国及びYP体制に対して厳しい態度で臨まなければならない。

…といったことを、昨日訴えて参りました。
来る10日には、関西でも反米集会が開催されます。同志諸兄、是非ご参集を。
今から69年前のこの日、広島で命を奪われた数多の御霊に対し、改めて御冥福をお祈り申し上げます。合掌

葉月6日
大東亜青年倶楽部
今年も、広島・長崎原爆忌の日が近づいてきた。戦争を身をもって体験された方の中には、思い出したくもないけれども、地道に語り継がれる方もおられる。かたや戦争を知らない私たちは、「命の尊さ」「ヘーワケンポー」についてたくさん教えられてきた。
これらは確かに大切だろうと思うし、その教育への恩恵は有り難いとも思う。
しかし、長ずるにつれて気になってきたのは、なぜ人間は、そうした「大切なもの」をうち捨ててまで争いを止めず、否むしろ非常時にはそういう価値観を超えた規範が現れ、それに殉ずることを美徳とすることができるのか、ということだった。
これについては、教えられる機会がなかった。となれば、自分で模索するしかない。

私たちは、英霊の気持ちを大切にし、大東亜戦争の意志を、日本民族として忘れてはならないことを訴えている。とはいえ、もし万一あの時のような非常時が出来したら、私たちは彼らと同じような精神世界に身を置くことが出来るのだろうか。多分、無理だろう。無理だとうすうす気づいているのに、ではなぜ私たちはずっと「大東亜戦争未だ敗れず」と叫び続けるのだろう。
無論、私たちも平和を愛し、希求する。ごく単純かもしれないが、あの時代を形作っていた何物かに対するある種の「憧れ」が、私たちに「大東亜戦争未だ敗れず」と叫ばしめるのではないかと思う。
その「憧れ」とは何だろう。

借り物の力に依存し、何も考えないことを良しとしてきた時代に辟易し、不器用で失敗するかもしれないと分かっていてもなお、少なくとも自分の力で何とかしようともがき尽くした末に胚胎した、日本的維新の情念のことではないか。
そして、結局誰もその維新とやらは成し遂げたこともないし、それが何物なのかも誰も見極めたこともない。それゆえに、「多分、無理」と感づきながら、ごくごくわずかな一分に維新とやらを見てみたいと惹かれ続けているのだろうと思う。
2014.08.01 葉月となりて
葉月となった。一年も折り返しをとうに過ぎ、月日の経過の早さを感じずにはいられない。
歳のせい…とはいいたくないが、日々雑事に忙殺されているうちに、いつの間にか時間をゆったり過ごすという習慣がかすんでしまい、時間に追われるために生きるという日常に変わってしまったようだ。とはいえ、残りの月日を悔いのないように生きたいものだ。

さて、当ブログについてであるが、先月からちょっとスタイルを変えた。といっても、書いている内容や、テンプレートは同じだ。平日は欠かさず更新するという試みを始めたのだ(それでも、いくつかサボってしまった日はあるが…)。平日は必ず書くという習慣をつけることで、自己の問題意識を研ぎ澄ませたい狙いもあったのだが、読み返してみると、まだまだ散漫な印象はぬぐえない。
それに、連日更新してもランキングが上がることもなし…。もっとも、はじめからランクアップや拍手稼ぎなどは狙っていないが、それでもこれまで「拍手」の形で一定の反応が得られていたと思ったことが、連日の更新になると、日によっては全くない日も登場し、それはそれで面白い反応だった。
ともあれ、今月もこのペースを続けていこうと思う。お一人でも、更新を待たれているかもしれない方のために…。
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