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広島に原爆を投下したB29型戦闘機「エノラ・ゲイ」号の搭乗員で、唯一存命していたセオドア・バン・カーク氏が亡くなったようだ。享年93歳。まずは、敵兵ではあれ、その御霊に合掌する。

さて、カーク氏をはじめ、搭乗していた12名の兵士の大半は、「あの日」について「戦争を終わらせる正当な手段」であったとし、同じような状況が起こったらまた投下していたと思う、と反省の念を抱くことはなかった。
確かに、兵隊は人を殺すのが仕事ではある。上官・国家の命令であってみれば、それに逆らうことは不可能だ。しかし、兵士とはいえ彼らも人間だ。同じ種である以上、これまでの殺傷能力を上回る原爆を使用し、その後の悲劇へ想像を巡らせることを、一瞬でも持って頂きたかった。

死人にむち打つことは、この際しない。しかし、彼ら搭乗員が全員亡くなったからといって、原爆の悲劇は終わらない。米国が正式に謝罪し、あの行為を英雄視する史観が改められるまで、私たちが彼らを心から許すことはないだろう。
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2014.07.28 AIBO
7年前に登場したロボット犬、AIBOの修理サポートサービスが終了するという。
登場時ずいぶんと話題になったものだが、これを「飼った」人は、ロボットなりのぎこちなさを感じながらも、AIBOとのやりとりを楽しまれたことだろう。
修理サービスができなくなるということは、次の故障はすなわちAIBOにとっての「死」を意味する。これまで生物のみが対象であったペットロスの概念に、無機物たるロボット(発語などの機能は、あらかじめ備わっていたものであって、自ずと限界がある時点でロボットは「有機的な生物」ではないだろう)に対する感情が登場することだろう。

また恐らく、これは日本人独特の感情なのかもしれない。元々、私たちはモノに対する思い入れが、他の民族に比して強い歴史を持っている。ロボットに対する感情もその例外でないことは、私たちの身の回りの漫画作品を見ても明らかであろう。アトム然り、ドラえもん然り、ガンダム然り…。本来的に無機物である玩具・ロボット・果ては他人にとってはゴミでしかないようなモノまで、私たちは愛おしく大切に扱ってきた。少なくとも、日本人のモノに対する見方は、「作って終わり、使い尽くしてポイ」で済ませるような、刹那的で、即物的な発想を持つ民族ではないだろう。
AIBOに出会い、親しまれてきた方々には、ちゃんとその最後もしかと見守って欲しい。
2014.07.25 密約を認めよ
「沖縄返還の前年、米軍基地に貯蔵されていた大量の毒ガス兵器を米領内に移送する際、日本政府が経費の一部を負担することを、当時の琉球政府には隠したまま米側と合意していたことが明らかになった。
7月24日に公開された外務省の極秘文書に記されていた。沖縄では毒ガスの移送ルートをめぐって反発が続いており、日本政府が方針を押しつけたとの批判を避けるための筋書きを「口裏合わせ」していた。
米軍基地で毒ガス漏出事故が起き、米兵が搬送されたことが明らかになり、地元で撤去を求める声が高まった。昭和46年1月からハワイ南西の米ジョンストン島へ船で運ばれることになったが、桟橋までの輸送経路になった美里村(現・沖縄市)を中心に反対運動が強まり、2回目以降の輸送は住民地域を迂回して軍用地内を通ることに決まった。だが基地内の道路建設費20万ドルを米政府は支出せず、最終的に日本政府が負担することになった。云々」


以上は、本日付「朝日新聞」の記事からの抜粋だ。
やはり、というべきか、密約文書どころか、日本政府にほとんど全て基地の経済的負担をかけていたのは明白だ。沖縄県の皇土返還を(名目上は)実現した佐藤榮作元首相は、返還の事実だけを見ると大きな功績かもしれない。しかし、米軍基地の負担や土地の利用を巡っては、尖閣と同じで問題を棚上げし、先送りしたのである。今に至る基地問題の原点のほとんどは、未だに闇の中にある密約文書に求められるといってよい。
昨今、それを隠蔽すると判断した司法・政府には、良識も何もあったものではない。都合の悪いことにはいい加減な理由をつけて頬被りし、世論を誘導しやすいことだけにはエネルギーを惜しまない…。戦後似非日本は、三流共産主義国家以下の国柄だと断じてよい。
現在、 今上陛下 皇后陛下が東北地方を行幸されている。この猛暑日の中、国民一人一人を気遣われるお姿、誠に恐れ多いことである。
 今上陛下は、皇太子であらせられた頃より戦災・天災・病気に苦しむ国民に、特にお心を痛められてきた。御自ら、故戦地に赴かれ祈りを捧げられるお姿に、心ならず斃れた御霊がどれほど慰められたことだろう。また、東北の地やハンセン病に苦しんできた人々に対しても、常に視線を同じくされてきた。仁慈溢れるお心に、感激を新たにした人々も多いことだろう。

今、東北では避難民のPTSDが大きな問題になっている。家庭内暴力や離婚率、子どもの心身耗弱も他府県よりも多いと聞く。本来最も対策を講じなければならない当の政府は、ご覧の通りの有様…。
そのような中、 今上陛下の行幸は、疲弊した国民の心が少しでも癒やされるに違いない。そして、私たち国民も常に皇恩に浴している感激をかみしめたい。

行幸のご無事を、心よりお祈り申し上げます。
米軍敵機オスプレイが、佐賀空港に配備要請されることになった。佐賀空港は事業的にも苦境に喘いでいたが、米軍特需がやってくることから当地はにわかに歓迎ムードらしい。

また、米国・政府の意向としては、沖縄県辺野古基地が完成する5年間までの間、時限的な配備としながらも、辺野古以外での米軍基地負担の実現に向けて、何が何でも佐賀に配備させることだろう。
この動き、これからますます広がることだろう。誠に悲しむべきことだ。

日本には、現在自主防衛能力がないから、それが可能になるまでの間は米軍に頼らざるを得ない、という理屈も分らなくはない。しかし、それこそが永続敗戦的思考の産物であり、ホシュの方々が忌み嫌う「自虐」日本を、自らが作り出している矛盾に気づかなければならない。
また、今回の沖縄県の反応もショックだった。仲井真知事は、「政府が我々の意向を汲んでくれているのだろう」と、他県への敵機配備を歓迎したとのことだが、沖縄県はじめ、日本人全体が今意識を改めなければならないのは、米軍基地や米兵器をそこかしこに配置することではなく、この日本からそれらをいかに早期に撤去するか、であろう。
このように書くと、「ではお前は、米軍様が本当にいなくなって、その隙を突いて中国や韓国や北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ。特亜の手先め」と過剰反応する方もおられよう。しかし、私たちにはもう自衛隊という軍事力がある。自衛隊は、米軍日本部隊に成り下がりかけているが、そうではなく、日本人の日本人のための軍隊(皇軍)に、再び復活させなければならない。このようにしてこそ、東亜世界は再び新しい秩序をもって生まれ変わるはずである。
しかし、オスプレイのような敵機を歓迎しているような現在、残念ながら以上の実現可能性は極めて低いといわねばならない。誠に悲しむべきことである。
マレーシア航空旅客機が、親ロシア派による撃墜説が強まっている中、米国は「日本にも墜落原因調査の透明性を高めるために発言をしてほしい」旨要請があったそうだ。
米国による自作自演説もささやかれる中、日本が果たして主体的に声を挙げられるだろうか。

思えば、内政のぐずつきへの非難をかわすために、外圧を利用し続けてきた安倍政権だが、そもそも彼らをはじめ現今の私たちの「外への視線」がいかに狭く、短絡的な発想に基づいているかをよくよく省みる必要がある。

ごく周辺の国家とのいざこざにしか視線が行かず(それもやたらとすぐ反応するという意味では、それらの国家と意識は変わらない)、ウクライナでの出来事や米国が私たちに何を押しつけてきているか、など主体的に考えてもこなかった日本政府に、今さら何を発言せよというのだろう。
米国の傘の下が、左右両翼にとっても一番生き心地が良い現状、自分から何も出来ない国家として、これからも米国の言いなりでナントカ自衛権とやらが発動された時点で、本当は誰も望んでいない血を流し、相も変わらず左右が乱闘する…。これで何を成せるのだろう、戦後似非日本とやらは。

国際社会の皆さん、いつまで経ってもこんなしがないコップでしか生きられない国、さっさと見捨てた方が良いですよ。
2014.07.17 街角から発信

以前(6月3日)当ブログで紹介した貼り紙だが、また新しい内容のものが貼られていたのでご紹介したい。

多分に反政府的志向の方によるものとは思うが、自分の言葉を発信しつづける勇気に敬意を表したい。

場所はこの際省略するとして、この紙が貼られているところは、店ではなさそうだし、かといって民家というにはかなり古めかしい(実際住まわれていたら申し訳ないが…)。どういった方が表現しているのかは気になるところだが、次の更新が楽しみな窓となった。
「住めば都」という言葉がある。移り住めば、不便な環境でもそれなりに住みやすくなるという意味だ。
最近、北朝鮮による拉致問題に関して、また事態がやや進展しそうな勢いだ。「今度こそは」「これが最後の機会」と期待するのは、被害者家族の方たちだけではなく、国民の多くも同様である。政府は、日ごろおためごかしばかり言っているが、せめてこの問題くらいは、どうにか道筋だけでもつけてほしいと願わずにいられない。

しかし、である。拉致された同胞に帰還してほしいという願いはもちろんあるのだが、連れ去られて幾十年が過ぎると、それなりにそこでの生活環境にも慣れてくるのではないか。連れ去り時の状況や収容所のような生活は苛烈を極めたことだとは思う。そして、恐らく当地では、そんなに酷い待遇で生かされているわけでもないだろう。そして、長く住めば、人情もわくだろう。私たちは、彼らの情に寄り添えているだろうか。

誤解のないように言っておきたいのは、同胞の奪還は、私も強く願っている。北朝鮮には、硬軟使い分けながら対応していくべきだと思う。ところが、せっかく帰ってきた日本が、物質には恵まれていても重度の精神的貧困状態にあり、おまけに集団的自衛権をめぐっては、米国のために同胞の血を流しても構わないというような「美しくない国」であってみれば、果たして彼らが安心して住めるのだろうか…と危惧する。彼らがいつ帰国しても、「やはり素晴らしい祖国だ」と改めて感じてもらえるような環境作りも急務だろう。
2014.07.15 敵機撃墜せよ
本日、米軍機オスプレイが東日本を飛来。
心ある国民の抗議も空しく、皇土が米軍によって汚され続けている。反日自民党政府は、米国属国化の強化に過ぎない集団的自衛権と、永続的に外患を誘致する自らの政治体制を即時見直さなければならない。
昭和47年の沖縄県国土復帰に伴う日本政府の米軍基地負担に関する密約文書開示要求(上告審)について、東京高裁は上告を棄却し、不開示が確定した。

日米関係を考える際、基地問題は避けて通れない案件だ。基地を残すにせよ、撤去するにせよ、これらがどうして今なお日本に存在するのかを問う作業はタブーでも何でもなく、むしろ国民的関心事でなくてはならない。
沖縄県が(名目上ではあるが)日本に復帰する時、駐留し続けていた米軍の今後の取り扱いについて、日米政府間でどのような取り決めが行われたのかについては、長年闇の中だった。
そこで、心ある国民がこれらの情報開示を求めたものの、司法はやはりというべきか、開示せよという英断はついに下すことはなかった。沖縄に基地負担を押しつけることを当然とし、それに疑問・異論を唱えることをもはや許さない風潮ができつつある今、沖縄の基地問題は半永久的に棚ざらしされることとなった。

真相を求める声がどんどん萎縮し、国民の犠牲が鬱積していくことを良しとする、こけおどしの国防論を掲げる政府やその意を汲んだ司法の反日ぶりに心底呆れる。
昨日の新聞で、「全日本おばちゃん党」というグループが紹介されていた。 記事いわく「男性ばかりの政治・社会の中、おばちゃんもしたたかに生きている。今こそ、おせっかいや相手をしっかり立てるおばちゃん力が必要だ!」という趣旨のもと、ネット発で始まったのだそうだ。
現在、フェイスブックに公式ページがあり、参加するにはそのアカウントが必要だが、どうやら男性は参加できないようだ。
当然のことながら、イデオロギー的にも偏りのある性格のグループではあるが、記事中の次の一節に唖然とした。

「まずは社会に疑問の眼を向けて」「政治を家庭の話題に」「想像し、考えることが大切」と…。
民主主義が成熟し、デモ文化もだいぶ浸透したかに思っていたのは、いわゆる運動の場に主体的に参加していた一部の特殊な人間の妄想であって、実は世間の大半の人々は、まだ(これからもずっと?)このレベルに留まっている、ということだ。
言挙げせぬ文化を美徳としながら、反面社会に声をあげようと訴えている私たちのダブスタもさることながら、このネット発のグループ活動も、一時の知恵熱的社会運動に収斂されるのだろうかと思うと、何だか虚しい気分になった。いつまで経っても、日本はヘーワで、未熟だなあ。
町中で見かける自民党のポスター。
つい最近までは、「TPP反対!」一色のスローガンだったのに、政権を取るやいなや、すっかりその声もトーンダウンだ。
その代わりにやたらと出てきたのが、「美しい国」だの「誇りある日本」だの、選挙の時ですら地元に帰りもしない浮ついた「愛国心」を声高に主張したものばかりになった。
反面、米軍基地・領土問題について、ある意味最も右翼的な発信をしているのは日本共産党だけ、という皮肉な構図となっている。

自民のいう「美しく、誇りある国」とは、官邸と永田町・霞ヶ関のみを指していることはいうまでもない。政界に腐敗はつきものとはいえ、こんな空間に住まう人間たちに、日本の美徳だの、はき違えた愛国だの押しつけられたくない。
愛国心・愛郷心のない人間などいない。そして、それは国旗や国歌と同じく、他者から押しつけられるべきものでもない。澎湃と、私たち自身の魂から沸き起こるものだろう。民族主義を鼓吹する者として、人間の情念はもっとも大切にしたい。
集団的自衛権に関して、左右立場を問わず賛否両論であることは、昨今の報道の喧噪ぶりから見ても周知の通りだが、私たち界隈のブログなどを見る限り、その論旨の多くは安倍内閣の判断に賛意を表しているようだ。
いわく、「左翼は「これまで不戦の誓約があったのに、この度の解釈改憲によって参戦の判断がいかようにもなる」と喚いているが、ではお前たちは第九条の「解釈改憲」で日本に主体的な思考をさせなかったことに対する罪の意識はないのか」といったものや、「自分の国は自分で護るというのは世界では当たり前で、眼前に危機が迫っていて何もせずに国が亡ぶのを見過ごすのか」といった意見だ。

一見もっともな発言なのだが、一番の問題は、当の安倍内閣がそこまでの思考も、苦悩もせずに、刹那的な判断でソーシュコク米国に同胞の血を差し出すことに何の躊躇も持っていないことである。
そういう軽々な決断、白々しい説明、短絡的な国際感覚しか持ち合わせていないであろう内閣の決断に賛意を表している限り、日本のウヨクとかホシュとか呼ばれる人間は、どこまで行っても、やはりたかだか自民の応援団にしかなりきれず、日本的情念の頂点たる維新大業など語るに落ちると後ろ指をさされるのがオチではなかろうか。

今、私たちがもっとも訴えなければならないことは、ナントカ自衛権のような、非常時には吹けば飛ぶようなヘーワボケした権利を云々することではなく、自前の国力で世界に挑み続けるポテンシャルを底上げすることではないのか。それらの仕事はまだまだ出来ると、私たちが率先して訴えなければならない。そしてそれは、米国様に頼った「借り物の力」でやるべきことではないことは明々白々だろう。
台湾国民党政府が、中国や韓国により炎上化されている「慰安婦」問題について、彼らと歩調を合わせるような動きを見せている。
すなわち「慰安婦問題」「抗日戦争」記念館の建設に前向きな姿勢を見せているというのだ。

周辺国の財布がしんどくなってくると、日本のカネを当て込んで歴史問題を引き合いにしてくる…というのはこれまで通りのシナリオだが、日本人にとってみれば、台湾は最たる親日国というイメージがあるだけに、この報道にショックを受ける人も多いかもしれない。

しかし、台湾国民党政府はそもそも大陸発祥の政府であり、日中戦争の経緯を考えれば、彼らが日本を敵性国家として見なすのも理屈の通らない話ではない。
しかも、台湾現政権の意識としては国民党政府が主流なのだから、大陸共産党政府は傍流であり、彼らこそ国民党政府の軍門に降るべき存在とさえ考えていてもおかしくはない。むしろ、このデリケートな問題への対応によって、国民党政府の正体が明らかになってきたとも言い得よう。どうする、民進党。

さて、ここで困るのはやはり私たちであろう。一旦、政治問題としては解決した、と韓国とも合意した案件について、再び韓国のみならず、遂には台湾からも火の手があがっていることについて、全くなすすべもない体の売国日本政府はどのような対応をするのだろう。
いつ何時も米国の顔しか見ず、亜細亜の隣人への礼儀(良くも悪くも)を欠いた結果が今日の状勢を招いているということにまだ気がつかないのだろうか。
謂われのないことに対してはNOを、ちゃんと合意できる部分はGOを、という判断すら曖昧にしてきたツケが一気に噴出した形である。いずれにせよ、日本政府は「慰安婦問題」について、もう言い逃れや頬被りはできない。「河野談話の見直し」にせよ、「徹底補償」にせよ、決着点となるしかるべき声明を出すべきだ。つまらない意地を張ってはならない。
2014.07.07 七夕にて
今日は七夕。
言わずと知れた、織姫と彦星が年に一度出会える日という、ロマンチックな日だ。
私たちは、この日に願い事を短冊に書き、笹に結わえる。

私たちの周りでは、拉致された同胞の再会を願ったり、または奪われた島々の恢復を願う人がいる。
そうした願いはもちろん大切だし、実現は是非ともしてほしい。

さて、私個人はというと…やはり様々な場に出会う、色々な考えを持った人々とさらに出会いたい。今日だけの出会いではなく、明日も明後日も…。
色々なカラーの人間と出会うことによって、さらに自分の狭い世界を広げたい。やはりまだまだ色々な人間に会わないといけないな…と痛感する。

皆さんは、どんな人に会いたいですか?

東京はやはり人が多い!聴衆も多い!

関東の先輩方におかれましては、こんなお邪魔虫にも快くご対応頂き、誠に有り難うございました。遠く近畿から、ご活躍をご祈念申し上げます。
2014.07.03 真の平和学
集団的自衛権行使容認に関して、朝日新聞が連日批判報道を行っている。その中で、立命館大学の反応に関する記事が目を惹いた。
立命館では「平和学」という講座が開かれていて、開設当初は画期的な試みとして話題になった。もちろん、イデオロギッシュな面はあるが、戦後日本が歩んできた条件付の「平和」について学ぶ場があることは貴重だろう。

それで、自衛権の閣議決定が強行されたことについて、平和学を学ぶ学生たちは一様にショックを受け、涙を流す学生もいたという。「平和憲法がないがしろにされた」と。
彼らの流す涙の意味も分からなくはない。これまで、日本がともかくも平和を保ってこられたのは、日本国憲法があったからだ、という理由からだろう。

ところが、平和が維持できたのは憲法だけの力ではない。憲法と米国の核の傘という二本柱によって保たれてきたという一面を見過ごしていないか。この二本の柱、言うまでもなくどちらも米国製だ。
これまでの平和は、結局米国のおかげであった。いわば借り物の平和だ。大東亜戦争における悲惨な経験の代償としての「日本国憲法」といいながら、米国から与えられたそれをずっと信奉することへのダブスタにも自己批判を加えるべきではないか。

借り物で、しかも自分たちで新たに構築することを忘れてしまった平和は、きっと本物の平和ではないだろう。自分たちの力で築き上げる平和の意味が、やはり問われていよう。それは、永久的に現行憲法を信奉することでもなく、現在のように米国に従い続けることでもないことは明白だろう。
ようやく、私たちは自分の頭で真の平和のあり方を模索する機会が出来たようだ。
2014.07.02 文月となりて
今朝の新聞は、どこも集団的自衛権閣議決定の報道一色だった。

「戦後レジームの脱却」を旗印としてきた安倍内閣にとって、この問題の解決は確かに脱却の一つの突破口になったという位置付けだろう。
しかし、その実は米国隷属体制の上書きに過ぎず、経済的失策の目くらましとして外圧による危機を煽っているだけという、典型的な張りぼて・嘘っぱち強権政治である。
いずれにしても、米国軍産複合体の要求に忠実に従った、国家国民を見捨てた舵取りであることは疑いようがない。

それにしても思う。
報道の過熱ぶりをよそに、私たちは今日もいつもと変わらぬ朝を迎えた。憲法があってもなくても、もう国民はどっちでもいい。政治はその無関心につけ込んできたことを見抜く機会も与えられぬまま…。
そのいつも通りの日常を過ごして感じるのは、きっと昔の開戦時またはそれに先立つ体制変動時も、私たちはいつもと同じ朝を迎え、仕事をしていたのだろう、と。そして、いつの間にかずるずる血を流す状況に向かわせられた…。
ただ、一つだけかつてと現代と違うだろうと思われるのは、国体への認識だ。かつては、平時戦時の分かちなく、国体の観念が国民全般に浸透していた。

ところが今はどうだろう。戦後そうした日本的観念は悉く隠蔽され、ソーシュコク米国の忠実な下僕に成り下がることを喜んできた。現内閣のやっていることは、正にその極致であり、万一集団的自衛権が発動されることがあれば、守る対象は誰なのか。言わずもがな米国のみである。同胞も国土も国体も捨ててなお、ソーシュコクのために血を流す…。こんな身勝手で無神経な「自衛権」など早々に放棄し、日本は一体何を守らなくてはならない存在か、もう一度最初から考えるべきだ。
2014.07.01 確信犯的売国
集団的自衛権をめぐり、国会周辺での喧噪をよそに、ついに与党単独で閣議決定してしまった。議論も民意もシカトし、米国にストーカーのごとくついていく似非日本の変態売国国家ぶりが見事に証明された。
しかし、国民一般はこれでも無関心を決め込んでいるかのようだ。「まさか、憲法をないがしろにしたからといっても、自分たちが戦地に行ったりするわけじゃないし、いざとなればソーシュコクの米国さんがちゃんと守ってくれるじゃないか」と、恐らく大半の国民がそのようにたかをくくっているのだろう。
そして、自分たちが無関心でいても、何となくずっとヘーワで暮らせるだろうとの、ある種の達観があるようにも見える。

実はこれには前例がある。
つまり、消費税導入時やPKO派遣の時も、意思のある国民はそれなりに声を挙げたが、結局自分たちの生存権・自由権が脅かされるほどまでには至らなかったという、「経験則」があるためである。さらにいえば、暴排条例の制定時も、実質は警察国家化を招くだけなのだが、国民生活の保全という名目で、新たな差別を生み出していることにも無感情でいられた。

今回の集団的自衛権の問題においても然りで、なんだかんだいっても私たちが戦争に巻き込まれるはずはない、仮にそうなったとしても、焼け野原になるはずがない、とどこかで達観めいた境地でいるのではないか。むしろ、一億総躁鬱状態の現代であってみれば、そのような状態になった時、「てっとり早く自殺できる」とさえ考える国民がいてもおかしくはない。
こんな情景、想像したくもないが、ここまで政治が暴走しても大半の国民は何も感じず、むしろその状況をどことなく受け入れてしまっているあたり、本当に日本は亡国になってしまっているのだろうと感じる。ニーメラ―の警句を想起するまでもなく、気付いた時には全て手遅れという状況が現実的となった。

ところで、「憲法護って国亡ぶ」などという言説が、ホシュ界隈ではささやかれる。しかし、護憲だから国が亡ぶのではなく、現状、改憲しても我が国はどのみち亡ぶ構図になっていると認識を改めた方が良いのではないか。国体観念なき、ソーシュコク米国の憲法を上書きしただけの改憲を目指す自民に、国を護るなどという感覚があろうはずもない。一体、我が国のホシュとかいう立場は、何を自民に期待しているのだろうか。
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