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京都府舞鶴市で、米軍によるレーダー基地建設が反対派の国民による抗議も虚しく強行された。米軍の威光には絶対に逆らえない戦後似非日本は、この皇土破壊を嬉々として受け入れた。
先日、舞鶴空襲の慰霊碑に「米軍による空襲により」という文言削除が強制されたことともリンクする。
舞鶴市からすれば、当然米軍機が飛来することへの騒音など、迷惑がる人もいるだろう。しかし、舞鶴では元々自衛隊も展開している中、「同盟軍」である米軍は歓迎する人の方が多いのだろう。
レーダー設置の名目として、北朝鮮の軍事的脅威が挙げられている。しかし、仮に本当にそんな脅威が差し迫っているなら、まずは自分たちの力で抵抗する態勢を作るべきだろう。それには、やはり腕力が必要だ。しかも、その腕力は米国などとの「(実質はソーシュコクに巻き込まれているだけの)集団的自衛権」などではなく、私たち日本人自身による、自発的自衛権として発揮されなければならない。自分たちで作るのには時間がかかるから、まずは米国に協力してもらおうという発想は、それこそ日和見愛国主義の最たるものである。

ともかく、心ある国民は、舞鶴市のレーダー設置には断乎反対し、米軍撤退・皇土奉還・自発的自衛権の確立を目指さなければならない。
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国民一同、千家国麿さまと高円宮典子さまの御婚約を、心よりお祝い申し上げます。
2014.05.22 夢いらんかね
「かくすれば
 かくなるものと知りながら
 やむにやまれぬ
 大和魂」
「夢なき者に理想なし
 理想なき者に計画なし
 計画なき者に実行なし
 実行なき者に成功なし
 故に夢なき者に成功なし」

いずれも、吉田松陰の言葉である。
松蔭は30歳に満たない年齢でこの世を去っているが、その太く短い人生において、これほどの言葉を遺し、今に生きる私たちをなお魅了して止まないのは何故だろう。
男人生、このように大きく生きたいものだ、と誰しも思う。しかし、現実にその通りに生きている人はほとんどいない。
中斎、松蔭、象山、瑞山、龍馬、南州…皆器の大きい男ではあったと思うし、色んな人を惚れさせただろう。
そして、彼らは、夢も理想もあり、計画も実行もやってのけ、しかもその道半ばで斃れた。夢に向かって実現しようとすればするほど、壁が幾重にも立ちはだかる。彼らには、それは死という形で現れた。
今を生きる私たち、そこまで命をかけて生きているだろうか…?それほどの夢が思い描けているだろうか…?
京都府北部の舞鶴市で、悲劇的なことが起こった。以下に、朝日新聞の記事(平成26年5月17日・土、朝刊)を転載する。



戦時中の舞鶴空襲で亡くなった動員学徒ら20人の慰霊碑を今夏に建立する計画に対し、用地を提供する京都府舞鶴市が「アメリカ空軍による」とする碑文の文言を削除させていた。元学徒らでつくる慰霊碑建立の実行委員会が削除要求を受け入れた後、市は公園の使用を認めた。
慰霊碑は昭和20年に空襲のあった7月29日に合わせて建立しようと計画。実行委によると、4月に公園を管理する舞鶴市都市計画課に碑文案を示すと、「アメリカ空軍B29による爆撃」という文言に「そこまで書く必要があるのか」と削除を求められたという。
削除を求めた矢谷明也都市計画課長は、朝日新聞の取材に「米軍が空爆を行ったことは今更書かないほうが文章の流れがすっきりすると思い、個人的に申し上げた」と説明。実行委の関本長三郎事務局長は「なぜ米国にそこまで気兼ねしなければならないのかと思ったが、7月の除幕まで時間の余裕がなく修正に応じた」と話した。(記者:福家司氏、原文ママ)



舞鶴市で起きた空襲の慰霊碑建立の記事は、他の新聞でもいくつか取り上げられていたが、碑文の問題を取り上げたのは、朝日だけであった。この碑文、大きな問題をはらんでいる。
一課長の個人的な意見が、舞鶴市の慰霊碑の文言を左右し、また、動員学徒が亡くなったのは、あたかも米軍による空爆ではなく、偶発的な事故であったと言わんばかりの碑文に成り下がってしまったのである。これでは、図らずも亡くなられた彼らも浮かばれず、一体何のための慰霊なのか、疑問を抱かざるを得ない。
また、実行委員会も、この文言を一度示した以上、その碑文での除幕が実現されるまで粘り強く交渉するべきではなかったのか。除幕式の日程を優先するあまり、本来の慰霊の目的がすっかり霞んでしまったように思うのは筆者だけだろうか。
碑文をめぐる問題は、広島記念公園の例を挙げるまでもなく、「誰が何のために、誰を慰霊するのか」が問われる。私たちの場合、あくまでも日本国民の歴史の中で、外圧により殺されてしまった同胞の無念を継承し、決して彼らの死を無駄にしないという決意を新たにする慰霊碑が求められる。であるならば、ソーシュコク米国に対して「過ちは繰り返しませぬから」と土下座するでもなく、「米軍による空爆」の一文を削るなどの余計な気遣いはもはや不要だろう。
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2014.05.16 第41回大夢祭

去る5月15日(木)、大夢祭が岐阜護国神社で催行された。5・15事件を敢行した、三上卓海軍中尉の意志を受け継がんとする同志同憂約50名が参集した。
会場にこだまする青年日本の歌、やっぱり名曲だ。
以下に、「青年日本の歌」と「昭和維新行進曲陸軍の歌」を掲載し、大夢祭の余韻を留めておく。

「青年日本の歌」
一、
汨羅の渕に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

二、
権門上に傲れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思う心なし

三、
ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

四、
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花

五、
古びし死骸乗り越えて
雲漂揺の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや

六、
天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ

七、
見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと
吹くや日本の夕嵐

八、
ああうらぶれし天地の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰が高楼の眺めぞや

九、
功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう

十、
やめよ離騒の一悲曲
悲歌慷慨の日は去りぬ
われらが剣今こそは
廓清の血に躍るかな



「昭和維新行進曲 陸軍の歌」
一、
若き陸星殉国の
犠牲にいさむ大和魂
昭和維新のそのために
起つた決意の五・一五

二、
ドンと一発革新の
のろしにあがる時の声
覚ませ悪夢を開け眼を
寄せる黒潮なんと見る

三、
国のためなら身命も
捧げて何の悔があらう
永き平和を神かけて
警鐘叩く五・一五

四、
どうせ散るなら潔く
花と咲いて君のため
陸の勇士が国難に
花を飾った五・一五
「美味しんぼ」の、福島原発の描写を巡って世間が揺れている。
焦点になっている作品での表現が、本当にあるのかどうかは、色々なソースがあるので、それらをご覧になって各自が判断をすれば良いと思う。

むしろ、ここで気になるのは一作品に対する、社会の異常な反応ぶりである。
確かに、「美味しんぼ」の作者は、イデオロギー的には偏りがある人物ではあるだろう。しかし、本人は、どういった思考にせよ、本人なりの意思にしたがって多くの作品を世に送り出している。つまり、その表現の自由は作者に帰属もするし、また絶対に守られなければならない。この点、社会の異常反応に釘をさした、松本人志氏の発言は実に的を射ていた。
政界の一部の単細胞が野次るならまだしも、社会全体が一部の表現をあげつらい、これでもかとバッシングをする。正に、佐村河内・小保方騒動に通底する、集団的躁状態に伴う現代版焚書坑儒・魔女狩りではないか。「はだしのゲン」も「アンネの日記」も同様だ。

一部の表現だけを問題にし、社会的にその表現者の自由を奪おうとするあまり、結果的にそれが自分たち自身に跳ね返ってくる恐怖を、なぜ誰も感じず、また考えないのだろう。

「美味しんぼ」の作者は、こんな揚げ足取りにめげず、どんどん己が信念の欲するところに順い、創作活動を継続して欲しい。
米中枢同時テロの追悼博物館が5月下旬にテロの跡地で開館するのに合わせ、市当局は10日、身元特定が困難な遺骨などを博物館地下の保管室に移した。しかし、遺族からは「観光客への見せ物になるみたいで、犠牲者を侮辱することになる」と抗議の声が噴出しているという。
テロ跡地では、地下保管に反対する遺族らが、黒い布などで口をふさいで抗議し、「遺骨などを博物館の一部にされたくない。常軌を逸した見せ物のようだ」「私たちは怒りと悔しさに震えている」「ここでは単に哀悼の意を示してほしい。政治問題化すべきでないと思う」など、様々な意見や反論が遺族から相次いでいるそうだ。

平凡な一日を、一瞬にして奪われてしまった悲劇は痛ましく、まだ遺骨すら見つかっていない方もいるという現実を考えると、彼らの抗議にも一理はある。
しかし、である。米国人が私たちと同じように、人の死に対して嘆き悲し感情があるのなら、原爆犠牲者をはじめとする米国の戦争による犠牲者へも、同等の感情を、少なくとも追悼の念を持って頂きたいと思うのは、筋違いな意見だろうか。
原爆投下が戦争終結につながったとし、未だにあの惨禍を正当化し続ける彼の国の国民性を考えた時、彼ら自身がテロの被害に遭ったとき、どういう感情を相手に抱いたか?を少しでも省みて欲しいのだ。
米国がこれまで仕掛けてきた世界中の戦争行為によって築き上げられた犠牲者とその遺族に対し、一分でも良いから、追悼と謝罪を願いたいと思う。


この連休は、各地で様々な催しが行われ、天気も良いので遠方に行かれた方も多くいらっしゃると思う。

そんな中、私たちの陣営も、各地で抗議や啓蒙に汗を流した。

連休に遊ぶのもいい。しかし、少しだけでも、休日の背景や意味を考える時があってもいい。
今日はメイ・デイである。
労組の強い企業などは、それぞれ動員をかけてデモ行進をし、思い思いに労働環境改善を訴えていることだろう。労働運動のにぎやかな時代は、私は体験したことがないが、毎年のようにこの日に運動ができることは、平和なことだと思う。

さて、このメイ・デイに、安倍首相が出席したそうだ。現職首相としての出席は初めてで、搾取者の代表がこういった場に出てくること自体驚きではあるのだが、私は別の部分に問題を感じた。

『朝日新聞』5月1日朝刊社説にも指摘されていたのだが、メイ・デイの場で安倍氏が登壇すると、プラカードが一斉に禁止され、声を上げた労働者が拘束される事態も起きたという。

国民が声を上げることもかなわず、ただただ自称「アベノミクス」の張りぼて効果のみを強調しつづける、裸の王様たる安倍首相には、こうした労働者の姿はどのように映っていたのだろうか。

国民にはひとしく、結社・集会・表現・思想の表現の自由がある(ただし、ヘイスピはこれに該当しないと考えたい)。国民の大半がなにがしかの労働に従事し、苛斂誅求に喘ぐ日々を過ごすことを余儀なくされている。そうした環境に対し、労働者の権利や環境に声を上げることは、正に私たちがもっとも守られなければならない権利である。
それを、労働者の祭典たるメイ・デイで、現職首相の実績を宣伝するがために、こうした声を圧殺することは、絶対に許してはならない。また、これを容認し、権力者の走狗に成り果てた連合は、徹底的に自己批判しなければならない。

また、このように書くと、「首相が演説しているのだから、そこは黙って話を聞け」と、くだらないコモンセンスを連呼するホシュの方々がいらっしゃいそうだが、元をたどれば、メイ・デイは搾取者と被搾取者が対峙する場なのだから、何らかの衝突は前提条件として首相は臨むべきだろう。そうした覚悟もなく、自説を滔々と述べるだけで、それに対する異論を聞こうとしない姿勢は、閉鎖的で排他的な現代社会を、首相自らが体現している。

こうしたメイ・デイは来年は行うべきではないだろう。また、「自由な声」の圧殺は、やがて私たち一般国民にも手が下される時が来るだろう。私たちの立場からも、しかと警鐘を鳴らしたい。
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