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米国のオバマ大統領は、9月5・6日に行われるG20首脳会議で、シリアへの空爆について説明を試みているという。会議に先立ってシリアを攻撃し、各国の支持を取り付けたいとの目論見があるとされている。

資源の強奪と軍事産業活性化のためだけに、いわれのない理屈をつけ、侵略し、挙げ句の果てに、お手製のジユーだのヘーワだのキボーだのを押しつける米国の戦略。
一昨年世界を賑わせた「アラブの春」は結局どうなったか。エジプトもリビアも、さらなる内戦状態に陥っているではないか。中東世界は、そのような単純な戦略でどうにか納められるような、生易しい世界ではないことは、米国自身が一番分かっているはずだ。

しかし、それでは何故米国はこの戦略に今もなおこだわり続けるのか。ほかでもない。世界で類を見ないモデルケースが、アジアの「ある国」にあるからだ。それを未だに盲信し、どの世界でも通用すると信じて疑わないのが米国の世界戦略の本質だ。
その「ある国」では、次期五輪の有力候補に収まり、歓喜に沸いているという。それはそれでおめでたい話なのだろうが、五輪や万博など、前世紀の発想に基づいた祭典で、カネと政治力が暗躍する単なるおためごかしに過ぎない。
今や、アジアで一番の白色文明の走狗となった「ある国」の行く末と、シリアの行く末と…。どちらも暗澹たる気分にさせられる。しかし、一点違うのは、米国に振り回されていることに無自覚か、自覚的かの違いだろう。ほぼ無自覚になってしまっている「ある国」の末路に比べれば、シリアはまだ抵抗する気迫が残っているかもしれない。
がんばれ、シリア!!米国の強欲を打ち払おう!!
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今日は、公民権運動のリーダーであった、キング牧師の「I have a dream」の有名な演説から50年を迎えたという。人種差別が今なお残る国で、半世紀も前の米国でその解消を訴えた牧師の勇気に、改めて敬意を表したい。

さて、そのような節目の日に、米国はシリアへの空爆を行う可能性があると発表した。理由は、反政府勢力に化学兵器を使用したことに関し、「世界の警察として」看過しがたいとのことだからだそうだ。
かつてアフガンやイラクに、「テロとの対決」「大量破壊兵器の存在」などと、もっともらしい理由をつけてかの国の民衆を大量虐殺したことを、まだ繰り返すというのだ。国際法違反以外の何物でもない、最低最悪の差別主義国家米国の面目躍如である。

心ある国民、メディアは、欧米のもくろみをとっくに見抜いている。今回の攻撃が、遠からずやってくるイラン攻撃への前哨戦であることを。さらに、石油の強奪、有色人種への優越意識に基づいた「非ブンメー国家をカイホーしよう」という、身勝手極まりない理屈の押しつけであることを。
キング牧師の演説から半世紀経った今日、大統領であるオバマ氏は、この非常なる差別主義的戦争に対し、どのような感慨を抱いているのか、是非聞いてみたい。

世界中で紛争の種をまき散らす国際指定暴力団米国・欧州勢力、暴力金融資本を有色文明から即刻追放しよう!

8月25日、津市は三重県護国神社へ参拝した。大雨で市中の人もまばらな中、同憂とともに参拝、当部の安全祈願を行った。
会旗も久々に広げた。何年ぶりだろう。身びいきかもしれないが、やはり良い旗だ。

当部は結成して7年あまり。街頭行進に演説、そしてこのブログ。いわゆる政治団体としてではなく、若手活動家の連帯の場として、色々と模索しながら活動してきた。紆余曲折交々あり、同憂も増えたり減ったりして、今に至っている。
この間、わずかに残った同憂たちで、私たち若手でいったい何が出来るのか、明解な答えも見いだせず、悩んだ。各々やりたいことはたくさんあっても、全部一度に行動出来るわけがない…。

普段の暮らしではきっと出逢わなかったはずの人々が、それぞれの思いを胸に、現状への疑問符を街頭での行動という形で表現する。私たちの邂逅には、たまたま「右翼」という磁場がそこにあった。

「日本」を護り、継承し、また警鐘をも鳴らす…。右翼の考えなぞ、大海に石を投げているだけかもしれない。維新の大業なぞ、夢のまた夢かもしれない。己が一生で何を成せるか、そんな大それたことをできるはずもない。大抵の人は、あえてそれを言わないだけで、本音の部分では分かっているはずなのだ。私たちは、体制の不条理に対してあまりにも弱い存在だということを。

しかし、それでも何事かを訴え続ける。現体制がひた隠しにし、解決する気もない諸問題を、筋論として警鐘を鳴らし続ける役割の一端を、やはり右翼は負うているはずなのだ。いつしか、国民が覚醒し、行動に移すことをどこかで願っているのだ。小さな声に過ぎないが、筋論を上げ続ける一人としてありたい。

私たちは、多分これからも、ずっと青臭いことを言い続けるだろう。私たちは誰でも、現状に妥協し、整合性を持たせなければいけないこともよく分かっている。だが、それはそれとして、一方で青臭くて、泥臭い理想に耽る時間も必要だと思う。
モヤモヤ悩みながら行動する。不器用でも、このスタイルが当部には合っている気がする。



珍しくメランコリックな日記でした。すみません。
鳥取市立中央図書館は、『はだしのゲン』に対する閲覧制限の措置を撤回したと発表した。当然の対応である。

特定の漫画に対して、表現が暴力的であるとか、誤った史観を植え付けるなどという理由で撤回ないし閲覧に制限をかけるなどということは、表現・思想信条の自由に反するばかりか、そうした措置がかえって読者をあらぬ方向へミスリードする恐れがあることを、どうして当の「大人たち」が分からないのだろうか。かつての焚書や悪書追放運動のような悪夢の時代から、私たちは何も学んでいないのだろうか。

先日、友人からこんなエピソードを聞いた。
ある親子連れが映画館に立ち寄り、お子さんが今公開されている映画「風立ちぬ」を見たいと言ったらしい。「風立ちぬ」は、零戦の開発者堀越二郎の生涯を描いた作品だ。当然、戦争の部分にも触れなければならない。そのお子さんの声を聞いた親御さんは、「戦争の映画だから駄目!」と一顧だにせず違う映画を選ばせたという。

このエピソードを知り、今回の『ゲン』の騒動と重なるものを感じた。「戦争物」だから駄目なのか。「戦争物」は暴力的なシーンが多いから子どもには見せるべきでないという配慮が働いているのだろうか。
確かに、私たちも戦争は知らない世代だ。しかし、だからこそ戦争物を読み、聴き、知る必要があるのではないか。それを見たからと言って、何もすぐさま暴力的になったり人格形成に支障を来すようなことはないだろう。戦争を描いた作品には、戦争の愚かさや怒り、そしてそのような状況を必死に戦った人間・国家への誇りなどのメッセージがどこかに込められている。
子どもに見せたり読ませたりするべきでないと考え、主張する「大人」は、結局戦争物に込められた深いメッセージ性を知ることもないまま、ただ単に「戦争=悪」という図式でしか物事を見られないのだろう。とんでもないヘーワな思考回路である。

ともかく『ゲン』は、内容の賛否はどうであれ、やはり広く読まれるべき名作である。これを葬ることは、原爆への怒りを込めた中沢氏や被爆者の方々への冒涜であるし、何より私たち日本人にとっての重大な損失でもある。
松江市教育委員会が、『はだしのゲン』(中沢啓治著)を学校図書館での閲覧を制限するよう検討しているという。ことの経緯は、「一市民」による訴えがきっかけであったらしく、「作品中に残虐な描写があり、子どもに見せられない」というものであったそうだ。それを受けて閲覧制限について検討したそうだが、一旦は不採択になっていた。ただ、松江市教委は独自に調査し、一転同作品に閲覧制限を設け、閉架に別置することに決定したそうだ。

問題の発端となった残虐な描写とは、いわゆる皇軍による朝鮮人への暴行・虐殺行為を生々しく描いた場面であるらしい。確かに、皇軍によって、本当にそういう暴行が行われていたかどうか、証拠も確証も曖昧な現在、中沢氏の描いた場面には過度な誇張があるであろう。また、中沢氏は確信的に日本軍=悪との立場を作品中で貫いており、多分に特定の政治性・思想性を帯びた作品であることは言うまでもない。

ただ、だからといって、大人の勝手な判断で図書の閲覧制限をかけて良いものかどうか。
実際、私たちの子どもの頃にも、教室には『はだしのゲン』が置いてありよく読んだ。残酷な場面も確かに多く、子ども心にエグさを感じた。しかしそこには、中沢氏の原爆への怒りや戦争の愚かさへの怒りが存分に発揮されたものだからこそ描けるリアリティーがあった。私たちは、そこから戦争の悲惨さや愚かさをハッキリと学んだ。では、読んだ人全員が反日となり、左翼となったか。そうはならなかっただろう。むしろ、読者の一人であった筆者は右翼になった(笑)。
子どもは柔軟で、清らかだ。だからこそ、色んな作品を読ませるべきなのだ。それが読んだ子にとってどういう影響を与えたかは、その子の後々の考えや行動によって自ずと現れるだろう。読むことが一番必要な少年期に、小賢しい「大人」の判断基準で選書を行う…こんな馬鹿げた話はないだろう。
当の「大人」たちは正論を唱えたつもりになっているのだろう。しかし、少なくとも筆者には、『ゲン』を読む機会を与えられない子どもたちが不憫でならない。『ゲン』は、戦争について考える格好の材料だし、劇画としても一級の作品である。

そしてこの問題は、児ポ法で問題視されている表現の自由、最近では、『風立ちぬ』における喫煙シーンに対する嫌煙論者の暴言にも通ずるところがある。自分たちの観点から認められない表現や作品を社会から排除しようとする浅ましい考えが、日本社会にここまで蔓延っている状況に、私たちは鈍感になりすぎていないだろうか。半世紀前に絶版になった『風流夢譚』が電子書籍で蘇ったことを歓迎しつつ、多様な言論が保障されることを念じる。
「アメリカン・ドリーム」という言葉がある。開国間もないころのアメリカは、欧州のような身分制度がなく、己の才覚一つで富や成功を手にする可能性を秘めていた、夢のような土地だった。
欧州の人々は、アメリカで一旗揚げようと「ゴールドラッシュ」へとなだれ込み、掴む者と掴まざる者とが入り交じり、成功した者こそが勝利者であるとする現在のアメリカ人気質ができあがった。

20世紀はまさにこの理想が極限まで追求された世紀であった。戦前の日本も、資源確保のために大陸や半島に進出し、彼の地の人民を日本的文明へと開放したという意味では、「ニッポンドリーム」を体現していたといってよい。
ところが米国では、「アメリカン・ドリーム」は、あくまで白人の、白人による、白人のための成功法であり、そのために虐げられた無数のインディアンや黒人たちは、彼ら白人たちの美酒の澱となってあえぎ続けた。同じ東洋民族の開放を目指したニッポン・ドリームとの本質的差異であろう。

第二次大戦が終了すると、「アメリカン・ドリーム」はますます世界を席巻するようになる。曰く「野蛮国家に民主主義を根付かせよう」「未開社会にジユーとヘーワをもたらそう」「今こそグローバル化して、世界市民になろう」…。戦後の日本は皮肉なことに、米国発のこれらの理念をもっとも正しく理解し、実現してしまった。もはやそこは、東洋の米国といわんばかりに。
未開の土地で、自らの腕一本で運命を切り拓いていく、そんな夢が今のアメリカに果たして残っているのかどうか。カネもヒトもモノも集まる国であってみれば、そこに成功者としての夢を見たい気持ちも分からなくは無い。しかし、「アメリカン・ドリーム」には、成功の裏で莫大な犠牲と孤独と反発を受け続ける悲劇をも覚悟しなければならない。差別主義の本質を垣間見る思いがする。

そんな残酷な理想を世界規模で押し広めようとすることは、果たして「ヘーワ」で「キボー」に満ちたものであるのか。アメリカン・ドリームの家元が凋落し、その是非が問われつつある今、生活も精神も米国化してしまった私たちにこそ、その答えを求める資格があるのかもしれない。
2013.08.15 鎮魂 終戦の日
今日は終戦の御詔勅を奉戴した日。

心静かに、御霊安かれと祈りましょう。

2673年葉月15日
大東亜青年倶楽部一同
昨日、大阪難波で日本講座が開かれた。今回で7回目を数える。30名ほどの参加があっただろうか。
今回も、自由に議論する形式で二時間意見交換がなされた。主に議題に上ったのは、「北方領土問題」「日教組・全教について」「日米関係」「拉致問題」「尖閣諸島問題」など。
いずれも、戦後の日本を暗雲のように覆ってきた問題だ。しかし、私たちの立場からすれば、これまた戦後一貫して世間に訴えてきたものばかり、基本中の基本といっても良い問題群でもある。

私たち界隈の勉強会・講演会でも、これらの問題は必ずといっても良いくらい議題に上る。食傷気味の感のある話題もある。しかし、そうなりがちなのは、私たちは繰り返し繰り返し、これらの問題を見聞きし、改善のための行動にも移しているからなのだが、大多数の国民にとっては、未だ遠い問題群に留まっているために、私たちにとっても、実感を伴う効果が得られにくいからだろう。
ただ、問題提起だけはどんな形であっても、現政権・体制に解決不能な状態でも、筋論として、日本の道義的問題として、主張し続ける必要がある。これは、ネットでだけとか、排外主義のみだけで解決出来るものではないだろう。何故なら、それらには「大らかさ」「明るさ」に決定的に欠けているからだ。

私たちが日々取り上げる問題に関して、私たち自身が本当に食傷気味になってしまえば、その問題は永遠に今後話題にされなくなる可能性があるだろう。それは、日本にとってマイナスになる。しかも、現体制にはその解決が不能であると観念した時、再度私たちは「やはりこの問題を筋論で取り上げ、啓蒙するのは私たちしかいない」と意識を新たにし、また地道に運動の場に帰って行くのだろう。
当日の話題は、確かに私たちにとって基本的な問題ではある。しかし、それらは一つも円満に解決などしていないのだ。だからこそ、基本的な事柄を再度認識する、という作業はなおざりにしてはならない。
次回は未定だが、また活発な議論を期待したい。
一頃ほどには話題に上らなくなったが、いわゆる「ヘイトスピーチデモ」について、東洋大学と在日コリアン青年連合が共同で都市圏の学生1,000名にアンケートを実施した結果、約6割が知らない、あるいは関心がないという回答であったらしい。
結局、国民がどれだけある問題について提起しても、騒ぎ立てても、世間の反応はこの程度であったということだろうか。いや、むしろ問題なのは、ニュースにもなったこれらの問題について「知らない」「関心がない」という層の厚さだろう。

何も、一連の報道でヘイスピへの参加を促したり、称揚するものでは決してない。あのような暴動はいずれ終息することは明らかであるし、また彼らの主張に仮に少しでも正当性があったとしても、モブ化した騒ぎにいちいち出向くのが煩わしいこともよく分かる。
ただ、誰でも声を上げる権利だけはある。それを受けて、何を訴え、騒いでいるのか。それを聞き、どのように解釈し、行動するか、あるいは否定するか、こうした判断は個々の裁量でなされるべき問題だろう。その結果「知らない」「関心がない」と回答しているなら理解できる。
ところが、これはあくまで個人的な印象ではあるものの、これらの回答は、ヘイスピ問題に関して見聞きすらもしておらず、全く意識の外の出来事のように捉えられているような気がしてならない。

だとすると、実は現代ニッポン人の意識は凄まじくニュートラルな、無機質な、デオドラントなものになっているのではないかと危惧せざるを得ない。世間で様々に起こる問題に関して、無関心ほど恐ろしいものはないことは、歴史が証明し、また権力側もそれを熟知している。その証拠に、現政権がどれだけ失言・放言・乱脈政治を行おうと、誰も止められなくなってきているではないか。このことと、今回の調査結果とに通底する問題は非常によく似ているのではないかと思うのだが、如何。

あらゆる世間の問題・不条理に対して「無関心・知らない」と決め込んでいる間に、「ナチスの手口に学んだ」政治が行われ、オスプレイや米軍ヘリのような敵機が墜落しても平気になってしまっている私たち、亡国の兆しはそこかしこに現れているようである。
2013.08.09 鎮魂 長崎忌
8月9日11時2分、長崎市に2度目の原子爆弾が投下された。
そして、同日、同じ日本国内で、旧ソ連軍による軍事侵攻が開始された。

2度に渡る、大国による虐殺行為。この両大国の世界支配が未だ続いている限り、日本にとって大東亜戦争は本当に終わったとはいえないだろう。

米国、ロシアへの怒りは、日本人として決して忘れてはならない。

数多の御霊に合掌。

2673年8月9日
大東亜青年倶楽部一同
2013.08.06 鎮魂 広島忌
今から68年前のこの日、日本で何が起こったか。
人類史上最悪の、原子力という科学による虐殺行為。それを行使したのは、現在日本が最大の同盟国と言って憚らない米国。

未だにあの日の出来事に対して、国家として何らのアクションもコメントも出そうとしない米国、そして求めようともしない日本。

治外法権化した在日米軍に、一つの異議申し立ても出来ない日本。

日本の先輩たちは泣いている。
こんな日本に誰がした、と。

私たちは、怒りの矛先を決して誤ってはならない。真に怒るべき相手は、「私たちにとって最大の友人」だとソンケーしている国であり、またそのように錯覚している国なのだということを。


無念にも焼き殺された御霊に、衷心より合掌。


2673年広島忌
大東亜青年倶楽部一同
8月4日、2ヶ月ぶりに「社会の不条理を糾す有志の会」定例街宣が梅田ヨドバシ前で行われた。
時間は午後2時から4時まで。暑い盛りに有志による世論喚起が様々になされた。
この様子はyoutubeでもアップされており、「社会の不条理」で検索すると動画が出てきます。是非一度ご覧下さい。

来月の定例街宣は、ちょうど一周年。細く長く、声を上げ続ける場を堅持していきたいものである。
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