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先の参院選で、「新党いまはひとり」の山本太郎氏が辛くも当選した。一貫して脱原発を訴え、当選時の一報を受けたときには、選挙事務所にどよめきが起こったという。予想外だったのだろう。
原発推進・対米追従一辺倒の現状の中で、彼の当選はそれなりに意義があることだろう。メディアも彼の主張には肯定的で、「時の人」になった感がある。

ただ、個人的には何だかしっくりこないものがある。
それが、彼の応援団体が極左の市民の党であるとか、俳優時代の軽薄な発言であるとかを理由にするものではない。むしろ、そうした理由は二次的なものでしかないだろう。政治に参画しようとする者、そういうイタい側面などあって当然だ。

むしろ、より恐れるのは、結局のところ彼が当選しても状況は何も変わらず、そればかりかよりひどくなる可能性があるかもしれないことだ。
彼はいわゆる「タレント候補」だ。これまでのタレント候補の末路を見てみるがいい。東国原は、橋下は、ノックはどうなったか。皆ドデカイことをぶちあげておいて、その実国民生活に何をもたらしたのか。無責任の一語に尽きる結末しか残さなかったではないか。確かに、ほぼ全ての政治家にあてはまることではあるのだが、山本氏も、きっとメディアや取り巻き共にうまくからめ取られ、しばらく花火を打ち上げて終わり…というくだらない結果になるのではないか…と危惧する。

脱原発候補が当選した事実は喜ぶべきかもしれない。しかし、一時のムーブメントでは、その高邁な主張も水泡に帰すのみで、国民はまた何も学ぶことなく次の選挙にかり出される茶番を繰り返すことになる。そうした裏切りを味わわないためにも、山本氏の今後の活動に注目したい。
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ソウルでのサッカー東アジア・カップ男子日韓戦において、韓国側観客席で「歴史を忘れた民族に未来はない」と書かれた横断幕が掲げられる一幕があったようだ。また、安重根の肖像画のようなものが登場すると、会場の大多数を占めた韓国人の観客から大きな歓声が上がった。いずれの幕も後半にはたたまれたという。

また韓国か!と小馬鹿にする気はない。ただ、文化・スポーツに国境無しという言葉は、日に日に有名無実化してきているようだ。以前の試合でも「独島は韓国の領土」という横断幕が掲げられ、本来公平であるべきスポーツの場で、こういう主張が繰り返されるのは感心しない。
ところが、対する日本側は努めて冷静にならなければならないところ、日本側応援席でも、旭日旗を一時掲げたそうだ。旭日旗は韓国で日本軍国主義の象徴とされているらしい。これを掲げた観客にどういう意図があったのかは分からない。ただ、日章旗ではなく旭日旗であったところに、どうも挑発的なものを感じるのは私だけではないだろう。
韓国側と同じ行動をとってどうするのだ。冷静に、大人の対応が求められるべき場面で、わざわざ同じ土俵に立つほど愚かな民度でもないだろう。政治・外交問題はその専門家があたるべき問題であるはずだ。スポーツの場にそういう問題を持ち込んだという点では、日韓どちらにも非があるといえないか。

ちなみに、韓国の聯合ニュースは、旭日旗について「FIFAの規定違反の可能性が大きい」と伝えたという。これは少し違う。旗と、文字による明らかな主張とでは、政治的効果も全く異なる。確かに、旭日旗は韓国では負のイメージが付いているのかもしれない。ただ、仮にそうであったとしても、全ての韓国人が同じような感情を持つかどうかは分からない。現に、日本統治時代を評価している韓国人も存在するのだから、一本の旗が政治的主張を禁じているFIFAの規定に違反しているとは必ずしも言い切れないだろう。かたや、韓国による横断幕は、明らかに日本の反応を意識した政治的主張といえ、チームへの応援とは言い難い。

ともかく、本来皆が楽しみ応援し、技術を称えるスポーツで、本来二次的な問題が注目されてしまうところに、純粋に楽しめない人間が増えているのは悲しむべきところだ。
フーリガン化したサッカー界はFIFAなど解散し、お互いの国内で仲良く玉コロしていろ!
2013.07.26 愚かしい判断
関西電力は、大飯原発の地下に通っている断層について、「活断層ではない」と結論づけ、近く原子力規制委員会に報告するそうだ。
その理由として、「少なくとも12~13万年前より活動が見られないため」としている。一旦、原規委から、活断層だと認定され稼働停止の処分を受け、その間にも国民生活は等しく送れていたにもかかわらず、原発を尚推進するため半ば無理矢理に活断層ではないと結論を出した恰好となった。

このような馬鹿な話がまかり通ってよいはずがない。活断層の動きなど、人間のさかしらで判断出来るようなシロモノではないし、事実東日本大震災は、誰も予想もしていなかった断層がずれたことから引き起こされた惨事ではなかったか。
いつ起こるか分からないのが自然災害の恐怖であり、だからこそ、未然に原発直下に存在する断層の存在が認められたことで、停止に向けて動き出したはずなのに、現亡国政権の返り咲きにより、再び皇土を荒廃せしめるというのか。

しかも東電は、福一の汚染水流出の責任をとり、役員報酬を減給する旨発表したが、完全な詭弁である。これまで、壊滅的被害を受けた東北~関東の漁協には、どう詫びるつもりなのだ。彼らの血のにじむような復興への努力が、福一の汚染水でまたもや振り出しに戻されてしまったようなものではないか。

何度も言う。私たちの陣営の中でも、原発については容認・反対と意見が二分している。当部は反対の立場だ。
国民への高負担の上で成り立つ原発は、経済的にも非効率であるし、何よりこれらは神聖な皇土の上に建設されている。神州清潔を自負する国民性に則るならば、原発こそ皇土を汚す無用の長物であるし、これらを推進しようとする勢力は反日と断じても差し支えないほどだ。

今、亡国政権は集団的自衛権を再考しようとしているという。言いも言ったりである。こんな愛国者ぶった絵空事を繰り返す前に、まず経済再建、そして国家エネルギーについて「ベストミックス」を尽くすよう議論するのが先ではないのか!
英国新王子御生誕の吉報に接しまして、日本国民として心よりお祝い申し上げます。

2673年文月24日 大東亜青年倶楽部一同
参院選の投開票が終了した。結果は予想通り自民の大勝となり、国民は何の学習もしないまま自民政権の暴走をまたもや許してしまった。
政策が無難であるとか、何だかんだ言ってもやはり自民に実行力があるとか、投票した国民にもそれなりの理由はあるのだろう。しかし、その事なかれな「誰かがケツを拭いてくれる」感覚自体が主体的ではなく、さらにその上、主権を外国に委託することに何の痛痒も感じない、愚かしい国民行動(=投票)となって表れた。

戦後体制に浸かりきった日本であってみれば、戦後からの脱却やその後の国家観を示せる人間などいるはずがない。ならば、米国の傘の下で何とかやり過ごし、仮に日本の独立を期するのであれば、相応の国力をつけてからだという意見もある。だが、その発想が既に日本の永続的隷属状況を容認するものでしかなく、結果的に戦後体制の維持に与しているジレンマに陥っていることに気づかなければならない。

ともかく、今回の参院選も、米国~自民ラインのヘタレ体制をより強化するものにしかならなかった。米国にとっては誠に都合の良い国になったことだろう。米国が冷たくあしらっても、日本側から米国のための「美しく強い国作り」に邁進してくれるのだから。
そして、早速今選挙の違憲・無効を訴える動きも出て来た。これこそ当然の国民行動であろう。断乎支持するべきだし、当選者も我が世の春とばかりに浮かれる暇などなく、瞬く間に椅子を取り上げられる可能性があることを覚悟せねばならない。
参院選も週末と迫り、各党による騒音規制法違反疑惑満載の「メーワクな街宣活動」も活発化してきた。特に東京選挙区では、定数5議席に対して20名余りが立候補しており、激戦区だそうだ。
その候補者連の中で、とある候補者のポスターのみ、相当の枚数が破られたり落書きされているのだという。この候補者はこの件で被害届を提出しつつ、選挙戦を送っているのだという。心労も相当なものだろうが、めげずに闘う姿勢にはエールを送りたい。

世間には、色んな主張の人々がいる。左右の立場からの発言もあれば、宗教的見地やアナーキーなものまで、様々な意見が出される。個人の発言に対する批判や反論はつきものだし、相手の意見が気にくわないからといって、それを封殺したり罵倒しか出来ないのは、却ってその反論者のデリカシーのなさが露呈している証拠だ。どんな意見や発言も、その是非はさておき発する権利だけは尊重さるべきだろう。ヘイスピも、その内容は聞くに堪えないものばかりだが、それは社会がどのように反応するかによって、消えもするし蔓延りもする。発せられた声の生き死には、相手の反応あってこそだろう。

さて、今回のポスター事件はまさにその典型である。ポスターには、その候補者の声や顔のエッセンスが詰まっている。それを破られては、当選はおろか自分の主張も否定されたようなものだ。
これでは公正な選挙など夢のまた夢だろう。このような愚かな行為は即刻止めさせなければならない。

かつて、故新井将敬氏のポスターにも同じような妨害があった(黒シール事件)。彼は在日という出自を持ちながらも、改革派として腕を鳴らしていた。そんな矢先、選挙ポスターに「新井は朝鮮籍」と書かれたシールが貼られた。そして、この事件の当事者は、右翼的だとか維新だとかで勇名を轟かせている石原慎太郎陣営によるものであった。
この両事件が突きつけている本質を、私たちは深く検証しなければならない。
参院選の投票日まであと僅かになった。候補者たちの浮き足だったツィートや書き込みに比して、世間の反応は相変わらず薄く、白けたムードのようだ。

しかもこの期間中、ブログ更新への意欲がやや喪失気味である。色々その理由を考えてみた。

①参院選及び、その後に立ち現れると予想される問題を考えたとき、暗澹たる気分になり、更新へのモチベーションが下がった。

②ただ、それではいけない。色々予想される問題があるなら、そこをえぐり批判の声を強めなければならないと意識を奮い立たさなければいけないことも分かっている。

③しかし、世間の無節操・無関心ぶり、ニュートラルな状況に愕然としている自分に気づき、怒りを超して諦めに近い感情を持ちつつある。では、どうすればいいのか…。

このどうしようもない状況に声を上げ続けなければならないのは、私たちが一番理解しているはずなのだ。しかし、この絶望的な亡国的状況を前にして、ついその声も枯れがちになる。所詮私たちが声を上げる意味などないのではないか。そう諦めかけたとき、自民的似非保守的言動に走るのは、体制礼賛に回収されることに気づかず「世間に対して声を上げている」と錯覚しやすい典型だろう。そんな醜い思考回路にだけは走るまい。
ともあれ、声を甦らせるには喉に潤いが必要だ。しばらく思索を続なければならない。これは自問でもあり、私たちの陣営全体が考えることなのかもしれない。
六代目山口組が、組内機関誌『山口組新報』を創刊したそうだ。組の方針や今後の対策、また娯楽コーナーも設けられた8頁の小冊子で、直系組長に配布されたという。
中身については、いずれネットにもあげられるのだろうが、これまで山口組は、昭和40~50年代にも『山口組時報』を発行していたのは周知の通りである。当局は、組織の引き締めの一環であるとして警戒を強めているそうである。

猪野健治氏がつとに指摘しているように、山口組は「やくざのコングロマリット化」をいち早く進め、総合企業化に最も成功した組織とも言える。
通常の企業社会でも、社内報などで社内動向やレクリエーション企画を特集し、愛社精神を涵養するのはよくあることだ。やくざ組織とて、色んな組員がいるだろうし、まして巨大組織であるなら様々な形で統一を図ることは、組織管理の方法としてはごく普通のあり方であろう。

ところで、私たちはやくざを過度に擁護したり、賞賛したりする立場にない。悪事を働けば、誰でも等しく現行刑法で処罰され、司直の裁きに従えばよい。
ところが、現在のやくざを取り巻く環境が、自業自得の側面もあるにせよ、明らかに現刑法の適用を超え、暴対法・暴排条例により明確な差別化が生まれていることに対しては、私たちも異議を唱えざるを得ない。昨今の暴排についての問題点は、様々なサイトでもすでに触れられているので、敢えてここでは割愛しておこう。

今回、山口組が自前で機関誌を製作したことに対しても、当局は警戒の眼差しを強めている。もしこれも禁止されたとしたら、やくざは、言葉を発してもならず、息もしてはいけないと拡大解釈されることにならないか。彼らにも言論・表現の自由はあるだろう。そして、この解釈は平然と、私たち一般大衆にも適用される可能性がある。現に、自民による国民管理が強大化・圧迫化の一途を辿っている状況を鑑みた時、やくざに対する締め付けの異常さは、決して人ごとと思えない。
本参院選では、原発問題がまた争点になっているのだという。衆院選でも争点になりながらどの政党も人気取りのためだけのリップサービスに終始し、今回もまた票のためだけのものに堕してしまっているのは言うまでもない。

本当に将来にわたる原発問題を解決しようとするなら、なぜ現在なし崩し的に動いている再稼働の是非についてどの党も批判の声を上げず、それに代わる政策の提示もできないのか。原発問題が争点だといいつつ、その発言は場当たり的なものばかりで、総括も展望も何一つ打ち出せておらず、その結果国民も原発はややこしいという印象を持ったまま投票に臨み、今と変わらない怠惰な生活を享受し続けるのは目に見えている。
違法な選挙に、違法なエネルギー、私たちを取り巻くほとんど全てのものが違法尽くしであれば、国民生活も荒廃するのは道理である。

そんな中、福一事故での初動対応に尽力された、吉田昌郎元所長が急病死されたそうだ。あの非常時において官邸・東電以下総崩れの対応の中、彼は現場で心血を注いで対応にあたろうとされた。細かなミスもあったのだろうが、大変な仕事を全うされたと思う。以て瞑すべし。
一方、のうのうと私腹を肥やし、その醜願をさらし続ける生ける屍どもの選挙戦。たとえ彼奴等の茶番の結果がどうであれ、彼の死を無駄にするべきではないだろう。
世間は何やら参院選モードらしい。改選前の議席獲得状況が違憲状態にあり、しかも改選後もその状態が継続するであろうことは明白であるにもかかわらず、そもそも立候補者のほとんどに、国政選挙の適法性について考えたと思われる節がないのが何とも奇妙な茶番劇である。
候補者連中は連日馬鹿発見器たるSNSで無駄な言葉を垂れ流しているが、与野党挙ってワンフレーズポリティクスに陥っている愚かさに気づかないのだろうか。

ワンフレーズポリティクスとは、最近では小泉元首相による「聖域なき構造改革」とか「改革なくして成長なし」に見られるような、一見分かりやすい言葉で民衆を導いているように見せかけつつも、その実何の成果ももたらさずその場しのぎの政策で国民を塗炭の苦しみに追いやった悪名高い政治手法である。
これらの無責任な言葉により、国民は小泉時代以前よりも物を考えなくなり、一億B層化したことは、私たち自身の実際経験として今に至っている。

ネット選挙の解禁は、確かに政治アピールの手段としては多様さをもたらしたかもしれない。しかし、そこに立ち現れたのは、立候補者も投票者も、またぞろその場その場で思いつきの言葉でのみ政治を語り、社会にコミットしていると錯覚しているおぞましい状況のみであった。
「演説なう」や「国民の反応に手応え」などの水物のような反応に、国家百年の大計の片鱗を窺わせる雰囲気は皆無である。

分かりやすい言葉。対象を的確に捉えた言葉としては確かに「分かりやすい」のだろう。しかし、その「分かりやすさ」を成立させるには、それだけの哲学なり信念に裏打ちされていないといけない。各候補者にとっては、当選するためにも目の前の反応は確かに重要だろう。ただ、己の懐のための当選であってみれば、結局その程度の哲学・信念しか持ち合わせていないということなのかもしれない。

その意味でも、採算度外視の泡沫候補者の活躍に一抹でも期待したいのである。彼らの発する言葉には、少なくとも「主な立候補者」の言葉のような汚れがないからだ。
2013.07.02 立候補
6月末より、一風変わった映画が公開された。その名も、「立候補」(公式サイト「http://ritsukouho.com」)。

日本の数ある選挙戦の中で、敗北必至ながらキャッチーな公約や政見でマニア・世間を賑わせてきた、いわゆる「泡沫候補者」と呼ばれる人たちの群像だ。
作品説明にはこうある。
「落選15回で日本記録の羽柴誠三秀吉、政見放送がYouTubeで150万回再生された外山恒一、会員数ゼロの政治団体・スマイル党総裁のマック赤坂ら、泡沫候補として知られる立候補者たちの独自の戦いを追ったドキュメンタリー。300万円の供託金が没収される結末になってもなお、なぜ立候補するのか。世間からは首をかしげられる彼らが選挙に立つ目的とその原動力に迫る。」

一目瞭然、決して、我が世を謳歌している「政治家」のドキュメンタリーではなく、何故ビートたけしよろしく「落選確実選挙演説」をぶちあげ、しかも何度も挑戦するのか。
関西ではまだ封切られていないので、当ブログ担当も未見だが、是非拝見したい一作である。
少なくとも、主張がどれほどぶっ飛んでいても、公約もマニフェストも破る前提にあり、票田で動員をかけるような「政治家」の選挙戦よりは、泡沫候補といわれる彼らの方が真面目に闘っていることは明らかだろう。
監督は藤岡利充氏。若手の監督だそうだ。また感想を記したいと思う。

昨日は、各地の神社で「夏越の大祓」が行われた日だ。

当ブログ担当も、地元の神社での神事に参加し、夏の健康を祈願してきた。参列者全員で、大祓祝詞を奉唱し、茅輪をくぐる…こういう行事、やはり大切にしていきたいものだ。毎年催行される神社さんに感謝したい。

今夏も厳しい暑さで、汗かきの筆者にとっては既にバテ気味である。暑い→ビール→ビール→冷酒→焼酎ロック・・・のパターンを繰り返しているから余計にバテるのは、よく分かっているが(笑)。

皆さまも、どうかバテませんようご自愛下さい。夏の暑さを少しでも忘れるような涼しげなブログに・・・いや無理か(汗)。

今月も、暑く熱く、そして篤いブログを入力していきたいと思います。
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