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京都市北区にある上賀茂神社。世界遺産にも登録されているし、山城国一宮としても著名だ。しかし、5年前の東日本大震災を受け、3.11に合わせて慰霊祭と同じく原発事故早期収束祈願祭も執り行われていることは、さほど知られていないかもしれない。
慰霊祭はともかくも、原発事故収束祈願祭がなぜ上賀茂で行われているのだろう。同社の御祭神は賀茂別雷大神で「電気の神様」として、いわゆる電力会社からの崇敬を集めてきた。そうした由縁もあり、原電事故の収束を祈るには恰好の神社ということなのだろう。
しかし、この祭祀と理屈には、ややねじれを生じかねない問題があるようにも思う。
原電事故の収束は誰しも願うことだし、当然早期になされなければならない。仮に収束すれば、上賀茂神社は、「安全で、再び事故が起きない原発」を電力会社の「たっての希望」により、祭祀を行うのだろうか。もし、そういう理屈であれば、ちょっと筋が違うだろう。

今さらいうまでもなく、日本の国土は皇土、つまり天皇陛下の御土地である。そこに住まわせていただいている私たち日本人は、皇恩の念を持つ必要がある。
そして、あの震災による原電事故で、同胞が半永久的に住めない土地を作り出してしまったことに対し、私たちは深く考えなければならない。実際、天皇陛下は何度も被災地に赴かれ、同胞の無念を分かち合っておられる。
こうした事実は、当の神社界が一番分かっているはずだろう。3.11で皇土を穢した原発は、その事故の収束はもちろん、一刻も早く撤廃に向けて歩を進めるのが真っ当だろう。
「祈り」という営為も大切だ。しかし、それだけで終わってしまい、喉元が過ぎればまた原発に頼るという発想は、愚かな歴史を繰り返すことに他ならない。
「言挙げせず」の慣習も分かる。けれど、満腔の祈りを捧げつつ、具体的に皇土を回復するための行動を、神社界こそがリードしてほしい。
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本日、70年目の大東亜戦争開戦の大詔奉戴日である。
いわゆる、「戦後70年」と銘打たれた本年、かの戦争を振り返る企画がいくつも登場した。その中で、開戦に関して特別に回顧しようとする試みは少ないようだ。
「敗戦」は、今に続く体制の基礎となった出来事だから振り返る価値があるが、「開戦」については世間はどのように考えているのだろう。もちろん一部の国民の間では、「きちんと継承しよう」という試みもなされているが、現代社会はとうに忘却しているかのようだ。
大東亜戦争の開戦は、結果的に我が国の敗北で決着した。そして、日本は敗北の日から、開戦に至るプロセスやそれに関わる政策・文化をすべて否定することによって、「戦後体制」を維持しえてきた。よって、敗戦とそれに続く現体制を論じることは善とされ、開戦までの日本は唾棄すべき存在として隠蔽することでしか、私たちは安心して生きられなくなった。

大東亜戦争を絶対的に正当化するものでもなく、徹底的に誹謗するでもなく…。
「あの戦争」の是非はともかく、まず民族の歴史として「起こった」ことを冷静に見つめられる作業は、いつになったら可能になるのだろうか。

そんなことを考えつつ、散華された御霊に合掌を捧げたい。
フランスで、大規模テロ事件が起きて数日経過した。事件の解明はこれから本格化するのだろうが、どうも色々と釈然としない。
被害に遭われたフランス国民が気の毒なのは言うまでもないが、問題はこの事件に反応している「世界市民」の方々だ。早くもFacebookでは、自分のプロフィール画像にフランス国旗を取り込み、追悼の意思を示し、「テロを許さない」という姿勢を出そうというキャンペーンが賑わっている。米国発のSNSで白人社会同士で細々やるならまだしも、世界を巻き込んで一斉に「テロダメ!ゼッタイ!フランス追悼!」とワンフレーズで埋め尽くそうというあたり、いかにもショービジネスに長けた米国ならではのアピールだ。

何もフランスがこのような事態に陥ったのは、シリア空爆を継続したことによる自業自得だというような、もちろん一理はあるにせよ、彼らを「やむを得ない犠牲だった」と冷酷に総括する気はない。
彼らの悲しみは想像するにあまりある。だからといって、いちいちSNSでこれ見よがしに「自分、追悼してます」と、時限的な陶酔に浸るなと思う。

そもそも、この変更設定がおかしい。プロフ画像変更期間が「一日」「一ヶ月」など設定できるのだが、追悼ってそんな軽いものではないだろう。本音ではさしたる関心もないのに、ひとたび今回のようなコトが起こると強迫行動のように世間の動きに同調しようとする現代人の軽さを思わずにおれない。
追悼というなら、なぜ連日空爆やテロに遭っているシリアやトルコの国旗を揚げないのだ。チベットや南蒙古・トルキスタンで弾圧されている人々を思わないのだ。日本国内においても、拉致された同胞に思いを馳せられないのだ。広島・長崎・福島・沖縄も全く終わっていないではないか。すべて、本人が意図しないところで命をないがしろにされている現実がそこにあるというのに。
命に差別はないと、よくいわれる。そうだと思う。ならば、今般のフランスでのテロの犠牲者に限っては思いの丈をこめて追悼の意思を示し、それ以外の国々(我が国も含め!)の命には、大々的に報道されないと関心も持てない。これでは、意図せずして命を差別していることと同じではないか。

フランスを特別視するなというのではない。追悼の形は人それぞれだし、Facebookで少しばかりの意思表示をしたい気持ちも分かる。生きながらえている私たちができることは、追悼に加えて、いつも通りの日常を過ごしつつ、現今の情勢を冷静に考えることに尽きよう。
「今こそ米国様について行こう」「今こそ護憲だ九条だ」とガラパゴスな結論で自己満足するのではなく、もはや民族間闘争の時代に足を踏み入れつつある現状への覚悟、私たちに残っているか?
本日は、教育勅語御渙発日だ。色々と批判もあるのだろうが、教育勅語が我が国近代教育の基盤となっていた事実は否定しようがない。かつてのこどもは、これを全文暗唱していたという。信じられないという向きもあるかもしれないが、お経などと同じく毎日毎日唱えると自然と身につくものだ。特に、日本独特の七五調や和漢混交の美文は、言葉の難しさもあるけれど、その響きが何とも心地よい。「グンコクシュギテキ」だとか「テンノウスウハイ」だとか、感情的な非難は措いて、一つくらい美文をすらすら唱えられるのは、純粋に格好いいと思うのだが、如何。
そして、思う。古典で有名な岩波文庫には、どういうわけか教育勅語も明治憲法も入っていない。大半の人々から見れば、これらは「古典」に属するものだろう。
日本国憲法が今なお出版されているのであれば、近代日本を形成した教育勅語や明治憲法も、目に触れる機会があって良いのではないか。
最後に、教育勅語の全文を掲載する。

「教育ニ関スル勅語」
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ
ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克
ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セル
ハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實
ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦
相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及
ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器
ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲
ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉
シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キ
ハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ
爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫
臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬
ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ
拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
2015.06.25 関電株主総会
本日は、関電株主総会。筆頭株主の大阪市をはじめ、心ある国民が総会でさまざまな問題提起を行っていることだろう。
その問題提起の中身、いうまでもなく原発再稼働のことだ。

今、原発・基地・拉致・憲法・領土を巡って、国が揺れている。そして、もう左右それぞれが意見をぶつけ合い、罵倒し合うという状況でもなくなってきている。
これらの問題を、政府自民党に代表される戦後政治空間全体が無視し続けてきた結果、今日の政治的臨界点を招いていることは、もう多くの国民が気づいているところだ。
上にあげた諸問題も、大原則は「私たち民族の悠久の歴史をいかに護っていくか」に尽きる。これらの問題を解決するために、これまでも一部の意志のある国民によって、独自に活動されてきた。しかし、結局のところ、政府の理屈に回収されてきたのが実情だったのではないか。政府の理屈とは何か、「自分の椅子のためには国民を蔑ろにしても構わない」「戦後ソーシュコクとなった米国様には、二度と逆らわない」、この二点だろう。そして、どの問題をとっても、米国の存在を抜きにしては考えられなくなった。否、私たち自身が考えることを停止してきたのだ。
現在、以上の問題も含め、我が国を取り巻く諸相が過渡期になっていることは周知の通りだ。これらの問題を、一致結束して取り組もうとしない以上、三島由紀夫の遺言通りの、否、それ以下の国になってしまう。ではどの面で一致結束できるのか。私たちの中に蠢いている、「米国的なるもの」「欧米中心・物質文明中心主義」からの脱却に他ならない。

関電の総会では、経営陣は相も変わらず原発再稼働一辺倒だろう。こんな論法をずっと続けさせて良いはずがない。皇土を護り、子孫に山河を残すためにも、まずは脱原発を訴え続けよう。
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