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2016.09.01 防災の日
今日は防災の日。職場によっては防災訓練を行ったところもあるだろう。日本に住む私たちは、台風や地震、またそれによって引き起こされる二次災害など、あまりにも天災と隣り合わせにして暮らしている。また視点を広げれば、外圧も交交きたる状況で、心底からヘーワでアンシン・アンゼンかといえば、ちょっと心許ない。

とはいえ、毎日なんだかんだ言っても、身の危険に迫るほどの緊張感を持つことはない。そういうコトが起これば起こった時と、運命に任せるのも、選択肢としてはアリなのかもしれない。

「備えあれば憂い無し」と、よくいう。ただ、備えていても、結局人間の不安感は納まるところを知らず、さらなる備えを自らに強いるようになる。そんなに備えたところで、予想をはるかに超えるコトが起これば、それもひとたまりもないよ、ならいっそのこと備えを解いて、ヘーワを歌おうよ、という考え方もある。ただ、これでは防災にはほど遠いだろう。

私たちは、いつ何が起きるか分からない、不安の世を生きている。だからこそ、身に迫る危険は「いつでも、あって当たり前」だし、だからといってそこで自分の運命を諦められるほど、誰しも達観などできない。不条理の世の中に身を置いているからこそ、生き抜くためにもがき、あがき続けることが大切なのかもしれない。「防災」とは、そのための一つの手段なのだろうと思う。
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大阪市内の中学校長の卒業式における発言が賛否を呼んでいる。
発言の趣旨としては、「女子はこどもを二人以上産むべきだし、男子もしっかり子育てに参加し、育ててくれたことへの恩返しをするべし。こどもが産めなくとも、里親になるなど、子を育てることはできる。そして、勉強をしっかりすること」に集約されるのだが、発言されるやいなや、賛否の声が上がった。「生き方を強制されるいわれはない」「個より公の発想が優先されたアナクロだ」、「言ってることはそれほど間違っていないと思う」「国の将来のことを考えた発言だ」などなど…。
個人的には賛意を表したい内容である。ただし、問題はやはりその表現力にあったのだろうと思う。

今後、人口減少が目に見えて明らかな日本社会において、政治は何らの具体的な解決策を提示しないまま過ごしている。人口減ならそれで良いと達観するのも一つの考え方かもしれないが、日本の場合それで済まされないところに問題がある。
他のどの世代よりも突出して多い、いわゆる団塊の世代が70歳代を迎えた。彼らの面倒を見ないと行けないのは、私たち若年層だ。高齢者を支える人口が少ないために、社会保障の負担額は増える一方だ。そこへきて、我が国は超高齢社会にもなっている。悪循環の中に私たちは生きている。
よって、今後も増え続ける高齢者を支えるためにも、分母はある程度確保しておかなければならない。外国人労働者や移民を悪びれずに歓迎し、人口を補填しようなどと考える現政権は論外だ。

この校長は、日本人がいなくなることへの危機感から冒頭の発言をしたものと思う。これは正論だし、そして単に女性にだけ子育てを押しつけようとも言っていない。男子も積極的に関わるべきだと踏み込んだのは、「昭和のおっさん」的な発想ではなく、むしろ現代的な感覚だろう。
ただ、聞きようによっては、「産むべき」「育てるべき」との下りに違和を覚える人もいるのかもしれない。「べき論」は、当人の思惑に誘導するために相手の行動・思考を制限する性格上、良くも悪くも反感を生みがちだ。
校長は、「世論」の圧力で退職する方向だという。本人は、恐らく生徒に「こう生きなければダメだ」と強制しようという意図はあまりなかったように思う。彼なりの送辞だったのだ。彼の発言の真意を少しでも理解してくれる生徒がいれば、と願う。
毎日、facebookにログインすると色んな人が色んな情報を発信されている。タイムラインを見ていると、「みんなスゴいなぁ」と感心させられるわけだが、スクロールしていくと、ちょっとしたお遊びのアンケートが目に入ることがある。ほんの軽いゲームのようなものだ。
最近やった中では、「あなたの国民性を診断します」というものがあり、「診断」をクリックしてみると、どうやら私はクロアチア人の国民性に近いらしく、85%がその血なのだとか(笑)。そして、日本人らしい国民性は5%だと…。
クロアチアって、東欧の国程度にしか知らないし、行ったこともなければ知人もいないぞ…。
普段より日本のことについて色々書いているのに、いざ診断となればそんな結果が出るなんて、遊びでもちとショックやなぁ…。

私はれっきとした日本人だ!…あ、そうか、遊びながら民族精神を覚醒させてくれるものだったのか(笑)!
インターネット空間で、愛国的な言説(実際はほとんど愛国的ではないのだが)を繰り広げるネット右翼(ネウヨ)という言葉が定着して久しい。一時ほどの盛り上がりはなくなったものの、依然としてヘイスピ的な言辞はなくならないし、いつまで経っても「韓国=反日=在日」に見られる、パブロフの犬のような反応に終始している主張に、どれほどの世間的な広がりが期待できるのだろうか。そこがゆがんだ言説の限界性というものだろうか。

最近は、ネウヨのほか、「ネクザ」という「人種」も出てきているという。ネットでは、全国の任侠団体の情報が毎日錯綜しつつ書き込まれているが、ネットでやくざ通のような書き込みばかりしている人々のことを、ネクザと呼ぶらしい。その手の書き込みを見ていると、確かにやくざ世界とさほど縁が深そうに感じられない内容の書き込みは結構目に付く。また情報が一人歩きしたためか、特定の組織の人事情報が色んなネット空間に拡散されていたりと、ネット民ならではのリテラシーの無さが見事に反映されている。書き込まれた当の本人たちは、どのように感じてるのだろう?と勘ぐりたくもなる。

いずれにせよ、ネウヨもネクザも、日頃の鬱屈した感情をネットに書き込んで溜飲を下げ(それで下がるのが信じがたいのだが)、実社会では180度違った表情で生活し、実際の現場を体験してみようとは決してしないという点では同根である(確かに、やくざの世界はさすがに足を踏み入れるには躊躇するが…)。
しかし、五感で世界を感じ、小田実的にいえば「なんでもみてやろう」精神に勝るものはないだろう。社会を面白くするのは、結局そういう良い意味での「野次馬根性」にあるとはいえないだろうか。
今日たまたま見たニュースによると、選挙権年齢が18歳以上となることにより、高校での新科目「公共」が必修化されるという。これに伴い、これまで内容が共通する部分もある「現代社会」が廃止されるようだ。現在の公民科では「現代社会」または「倫理」「政治・経済」が必修だが、文科省によれば「倫理」「政治・経済」も選択科目となる可能性があるという。

18歳に選挙権を引き下げたところで、喜ぶのは組織票で動く連中だけなのだろうけれど、それにしても18歳にして政治に関わらざるを得ないからといって、新たに「公共」なる科目を導入したところで、政治に自覚的な「成人」が生まれようはずもない。元々、家族が創価や日共ならばともかく、大半の家庭は政治に無関心か、世情に流される世帯だろうに。そこへきて、ハチャメチャな所業ばかりが目に付く政府である。政府に都合の良い内容の単元になってしまわないか、どうにも心許ない。

歴代政権によってコロコロ変わる政府見解や政策を学ばされるよりも、あえてここは「倫理」を選択科目ではなく必修にせよといいたい。中途半端な政治史を一年かけて学ぶより、「倫理」での先哲・賢人の言葉に歴史や哲学や生き方の神髄が残されているだろう。それらの言葉によってこそ、これからの時代を考え抜き、生きていく力を身につける若者が現れるのではないのか。
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