2016.09.04
久々に吼えてきました…

久々に、大阪は梅田で行われる「社会の不条理を糺す会」定例会に参加してきました。
まだまだ暑さの残る9月、バスの演台の上も暑い暑い(汗)。またも熱中症寸前になりました…。
ちなみに、来月は休みらしいです。
11月にまた行けたらいいなぁ。
2016.09.01
防災の日
今日は防災の日。職場によっては防災訓練を行ったところもあるだろう。日本に住む私たちは、台風や地震、またそれによって引き起こされる二次災害など、あまりにも天災と隣り合わせにして暮らしている。また視点を広げれば、外圧も交交きたる状況で、心底からヘーワでアンシン・アンゼンかといえば、ちょっと心許ない。
とはいえ、毎日なんだかんだ言っても、身の危険に迫るほどの緊張感を持つことはない。そういうコトが起これば起こった時と、運命に任せるのも、選択肢としてはアリなのかもしれない。
「備えあれば憂い無し」と、よくいう。ただ、備えていても、結局人間の不安感は納まるところを知らず、さらなる備えを自らに強いるようになる。そんなに備えたところで、予想をはるかに超えるコトが起これば、それもひとたまりもないよ、ならいっそのこと備えを解いて、ヘーワを歌おうよ、という考え方もある。ただ、これでは防災にはほど遠いだろう。
私たちは、いつ何が起きるか分からない、不安の世を生きている。だからこそ、身に迫る危険は「いつでも、あって当たり前」だし、だからといってそこで自分の運命を諦められるほど、誰しも達観などできない。不条理の世の中に身を置いているからこそ、生き抜くためにもがき、あがき続けることが大切なのかもしれない。「防災」とは、そのための一つの手段なのだろうと思う。
とはいえ、毎日なんだかんだ言っても、身の危険に迫るほどの緊張感を持つことはない。そういうコトが起これば起こった時と、運命に任せるのも、選択肢としてはアリなのかもしれない。
「備えあれば憂い無し」と、よくいう。ただ、備えていても、結局人間の不安感は納まるところを知らず、さらなる備えを自らに強いるようになる。そんなに備えたところで、予想をはるかに超えるコトが起これば、それもひとたまりもないよ、ならいっそのこと備えを解いて、ヘーワを歌おうよ、という考え方もある。ただ、これでは防災にはほど遠いだろう。
私たちは、いつ何が起きるか分からない、不安の世を生きている。だからこそ、身に迫る危険は「いつでも、あって当たり前」だし、だからといってそこで自分の運命を諦められるほど、誰しも達観などできない。不条理の世の中に身を置いているからこそ、生き抜くためにもがき、あがき続けることが大切なのかもしれない。「防災」とは、そのための一つの手段なのだろうと思う。
2016.08.22
追悼 対馬丸
本日は大東亜戦争末期、輸送船対馬丸が米国の潜水艦により撃沈された日である。これにより、疎開児童約1500名が亡くなり、わずかに生存した方々も、ある種の「後ろめたさ」を感じながら余生を過ごされているという。
私が育った地は、いわゆる左翼的反戦教育が盛んだったため、8月のヘーワ登校日には対馬丸のアニメ映画を見た記憶がある。
今にしてみれば、戦争の悲惨さを知る良い機会だったと思えるが、映画にせよヘーワ教育にせよ、やはりそこに貫かれていたのは、「日本が起こした戦争によってこうなった」という図式だったように思う。
仮にそうした面があったにせよ、では未来ある児童が数多く殺され、空襲で焼かれたことさえも、日本のせいなのか。
これについては、間違いなく攻撃した当事者、すなわち米国にその責があるのではないのか。
日本にも、作戦上の失敗は山のようにあったけれども、民間人を狙ってまで勝とうとする卑劣な作戦を遂行した米国が、今日に至るまで正義面していて良いはずはない。
今日まで続く米国の戦争犯罪を追及できるのは、他ならぬ私たちにあることを忘れてはならない。また、このことが非業の死を遂げた御霊の慰霊にもつながることを確信する。
私が育った地は、いわゆる左翼的反戦教育が盛んだったため、8月のヘーワ登校日には対馬丸のアニメ映画を見た記憶がある。
今にしてみれば、戦争の悲惨さを知る良い機会だったと思えるが、映画にせよヘーワ教育にせよ、やはりそこに貫かれていたのは、「日本が起こした戦争によってこうなった」という図式だったように思う。
仮にそうした面があったにせよ、では未来ある児童が数多く殺され、空襲で焼かれたことさえも、日本のせいなのか。
これについては、間違いなく攻撃した当事者、すなわち米国にその責があるのではないのか。
日本にも、作戦上の失敗は山のようにあったけれども、民間人を狙ってまで勝とうとする卑劣な作戦を遂行した米国が、今日に至るまで正義面していて良いはずはない。
今日まで続く米国の戦争犯罪を追及できるのは、他ならぬ私たちにあることを忘れてはならない。また、このことが非業の死を遂げた御霊の慰霊にもつながることを確信する。